前回から引き続き、「原因と結果の究明に忙しい世」ということについて書いてみる。 この思考パターンに慣れ過ぎると、特定の何かを、すべてを解決するような救世主的存在として置きたくなる。 ヨガを伝える際も、そんな願望を持っていそうな人に出会う。 あ…
以下の文章を読んだ時、ちょっと救われた気がした。 夢を語ればその動機を問われ、信念を論ずればその根拠を訊ねられる。病があれば病因を探りはじめ、事故があれば責任の所在が追及される。とかくに人の世は、結果と原因の究明に忙しい。 しかし世界は、原…
「あなたの中で起こっている、呼吸というパーティーは終わらない」 by マーク・ウィットウェル 現にあなたが生きている、という燦然たる事実がある。 その事実に、どう取り合うか、僕らには自由が与えられている。 それを賛美することもできるし、そんなこと…
神秘とは、世界がいかにあるかではなく、あるというそのことである。 (ウィトゲンシュタイン) 「在る」ということが、すでにはらんでいる神秘、美、完全性がある。 これは、(その気になれば、)いつでも味わい得る。 この味をしっかりと覚えておいて、あ…
今日、今まで全くヨガに興味を示してこなかった姉と話しました。 「ヨガの効能を教えてくれて、それが私のニーズに合ってたらやる」というきわめて男性的な挑戦(?)を受けて、僕もそれに乗っかり、プレゼンのような形でヨガについて話しました。 僕の伝え…
ヨガスタジオに行ってヨガをするって、人によっては「高級レストランに行って食事する」くらいの感覚なのかもしれない。ちゃんとお洒落して、上品な振る舞いをして‥というように。 僕が伝えようとしているのは、むしろ「家庭料理のおみそ汁」くらいの感覚だ…
あえて、こんなことを言ってみたい。 ヨガは、苦しみ(ドゥッカ)の解決ではない。 苦しみのある世界から、ない世界への移行ではない。 ヨガは、部屋の中で行う、気持ちよくなるための儀式のようなものではない。 端的に、生の全体を知覚し、それと親しむこ…
何かひとつ、突出した武器を持て、とか言われたりする。 あなたの魅力に、みんなが気づくためにね。 しょうがないんだ。 あなたそのものの輝きは、悲しいかな、 ほとんどの人には見えないようになっている。 だから、きっかけが必要なんだ。 みんなに気づい…
以前、色覚についてを連続で書いたけれど、今回はその続編。 最近、あるメガネ店に行ってきた。 目的は、「色覚補正メガネ」というものの検査と試着。 色覚特性(一般的な人と、色の見え方がズレてること、以前は「色盲」とか「色覚異常」と呼ばれていたが、…
どんなに素晴らしい、洗練された文化でも、この世に素晴らしいものとして表れてくるには、ひとつのハードルを超えなければならない。 それは、「あなたが実際にやる」ということだ。 (別にあなたじゃなくてもいいのだが、実際に生きている人によって為され…
電車の中に赤ん坊がいると、周りの大人たちが、全くの他人にも関わらず、赤ん坊に笑いかけることがある。赤ん坊たちは、存在しているだけで、絶大なる肯定のまなざしを向けられているようにみえる。 自己が存在していることに対する肯定感。僕自身がそれを育…
自然が美しい、と言う時、 自然とのリアルな関わりの中で、辛苦も共にし、その上で美しさを垣間見ることと、 管理された自然を無害な立場から傍観者的に見て「美しい」と言うことは、 全く違う。 文明人は、圧倒的に後者が多くなる(「植物園」なんていうの…
世界を眺めたとき、そこに美しさが見えるだろうか。 もし見えないのなら、美しいと知覚することを妨げている何かが(自分の中に)あるのだ。 しかし、もっとよく見ると、 その(妨げになっている)「何か」すらも、世界の美しさの一部なのだ。 だから、自分…
昨日、私は今日よりも照らされ方が少なかったわけではないし、今日、より多く照らされているわけでもない。なぜなら、もし昨日私が事をこの様に見ることができたなら、私は確かにそう見ただろうからである。(『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』) なんだ…
数回にわたって書いてきた『時間の終焉』(クリシュナムルティ/ボーム)のまとめ。 「今の自分ではない何かになろうとすることが、人類の苦しみの根源である。」哲人宗教家のJ.クリシュナムルティは、そう言い切る。それを、一般的命題として語ることには、…
書評『時間の終焉」(J.クリシュナムルティ/D.ボーム)③ 心理的に時間から自由であるとはどういうことか? それは(一面的には)、「私」をAだと定義し、それを保持しようとしたり、 AではないBになろうとしたりする心理的努力から解放されることである。 そ…
書評 『時間の終焉』 J.クリシュナムルティ/D.ボーム② この本を読んでいる最中、変な夢を見た。 非常に短く、ストーリーとしても変だけれど、とても示唆に富んだ夢だったので、少し書いてみたい。 友人数人を含め、なぜか僕らは戦場にいた。 そこでは、不毛…
書評『時間の終焉』J.クリシュナムルティ/デヴィッド・ボーム① 私たちは、脳に確かさを与えないように、それを確かな状態にさせるような知識を求めることなく生きる方がいいのだと思います。・・ いかなる知識も永久に固定することなしに学んでいけば・・ (…
Body loves its breath. Inhale loves exhale. (身体は呼吸を愛している。吸う息は吐く息を愛している。) ハートオブヨガ提唱者、マーク・ウィットウェルの言葉。 この言葉が意味しているのは何か? 端的に言うと、 愛の出所は「私」ではないということ。 …
僕のカラダは、カフェインに敏感らしい。 コーヒーや紅茶を飲むと、頻繁にトイレに行かなければならなくなるし、 その晩眠れなくなることもよくある(あった)。 例えば、 ・午後3時にカフェでコーヒーを飲む。 →朝5時まで眠れない。 ・午前10時に家で紅…
破壊のたやすさ。 ほんとにちょっとしたことで揺らぎ得るということ。 しかも、揺らぎの要因は至る所に溢れており、むしろ安心していられるのは奇跡的だということ。 さまざまな要因に下支えされた「安心」が、 何かのおかげだなんて簡単には言えないし、 ま…
たぶん、 桜の花が美しいのではなく、 世界に遍在している「美」を、 桜の花が僕らに知覚させるのだ。 その気になれば、 どんな経験からも、 「存在していること」が潜在的にもつ「美」に到達することはできる。 問題は、「その気になれないこと」があまりに…
カラダをえこひいき的に愛することと、 カラダへの愛から世界への愛へと広げていくことの違い。 「私だけは!」「このカラダだけは!」という仕方で現れてくる自己愛的なカラダへの愛は、偏愛だ。 アーサナを中心としたハタ・ヨーガの実践は、一見このような…
(前回の続き) もしヨガが全人的なものであり得たとしても、 実際に僕がヨガを伝えるとき、 具現化するそのかたち、言語化するその言葉は、 目の前にいるあなた専用であり、決して全人的ではあり得ない。 全人的であることを志向しつつも、 目の前の人に向…
いのちに導かれて動く。 すると、自分があれこれ考えようと、有無を言わせないほどの強い必然性を感じられたりする。 一人称「私」を大きく超えた、大文字のいのちの力。 さて、ヨガにおける「アーサナ」はどうだろう。 どの程度動くかは、その時のいのちの…
母との会話を通して分かったこと。 「そのままでいい」は、「そのままでいろ」じゃない。 生きようとする欲動として、運動として、方向性として、「いま」が存在している。 だから、未来を志向することが、今のこれではなくあれになろうとすることが、 その…
そういえば、インドでこんなことを言われた気がする。 「ポーズをとっているのは、わたしではない」 この時は、えらくスピリチュアルな言葉に聞こえた。 実際、この言葉の発言者は、おそらくヒンドゥー教徒で、「わたしではなく、シヴァがわたしにポーズをと…
頼りにはなっても、全面的には頼り切れないと悟った時から、自立が始まる。 まだ支えが必要な人に、「補助輪なんかに頼ってないで、早く自立しろ」と言うのは、ちょっと的外れだ。 補助輪の「補助輪性(いつかは取り外し、自らの足で歩む覚悟をしつつ付き合…
いろいろな自分がいる。 中には、認めたくないようなヤツもいる。 そんなヤツは排除して、自分にとって都合のいい部分だけ育てたくなったりする。 でも、認めたくないようなまさにその部分が、実は自分の生命を成り立たせてくれていたりする。だから、しょう…
私のそもそもの原点は、昆虫が大好きな昆虫少年として野原で虫を追いながら、自然の美しさや、例えば蝶の一生での、それが芋虫(幼虫)から蝶(成虫)に変わっていくメタモルフォ―シス(変態)のすばらしさなどに感動したところにあります。(・・) 生命と…