的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

インド哲学を学ぶ大学生の自由さと、それを学んだ後の新入社員の不自由さについて

大学時代、ともにインド哲学を勉強していた友人と話した。

僕らは同期だが、僕は1年休学していたので、僕が社会人1年目なのに対し、彼は社会人2年目だ。

 

インド哲学で僕らが学んだことは、率直に言うと、「この世の空性を悟る」ということだった。

この世に、しがみつくべき価値なんてない。この無常な世界で、執着し続けられるような価値なんて存在しない。

そんな価値観を、僕らはかなり夢中になって学び、そしてある程度の深さまで身体化していたと思う。大学、つくばという世間から少し離れた環境もあって、僕らは世間の人々が大事にする価値観に対して、「何でそんなのが大事なのかねぇ」という、ちょっと達観した態度を取りがちだった。

 

問題は、そんな二人が社会人となり、働き始めた時、どんな思いを抱くのか、ということだ。

会社の業務に専心し、コミットし、そこでできたこと、できなかったことに一喜一憂するような生活を、こんな二人ができるのか、という問題だ。

 

現状から言うと、ある程度できてしまっている。仕事ができて楽しいと思うこともあれば、何かできないことを、できるようになりたいと思うこともある。つまり、その状況に対して執着し、仕事をしている自分を「自分」だと思いインド哲学的にいえば、「本来の自己」でないものに対して自己同一(サンヨーガ)し・・・

友人の彼は、そんな状況が、たまらなく嫌だという。

世間的には、「やっと仕事に集中するようになったな」と安心される状態のはずだが、彼はそれが嫌だという。「それって、普通の人になるってことでしょ?」と。そこがとても彼らしい。

そんな彼の最近の興味は何かというと、ジョルジュ・バタイユ

みんなが必死になって追いかけている価値観を、自分も一緒になって追いかける気にはとてもなれない。

バタイユというフランスの思想家は、「ほかの人は決して共感してくれなくても、自分だけが内的に持ち続けることのできる卓越した価値」を提起した。それがどんなものか、友人が挙げていた例は、「笑い、涙、性的興奮、詩的感動、聖なるものの感情、恍惚・・・」((『非-知』p.141))。

このようにして導かれる、自分しか知らない、「特異な価値」になら、せめて価値があると思って生きられるのではないか・・

彼はこんなことを想っているらしい。今日また話したら、違うことを言うかもしれないけれど。

 

では、僕はどう思っているか。

仕事に埋没し、順応しようとし、そこにとらわれ、一喜一憂するような生き方について、僕はどう思うか。

無知であるがゆえの自由さ。例えば、社会のしがらみを知らないことによる、学生の率直さ。ある段階で起こる囚われやしがらみを、単に「知らない」ことによって生じる、ある種の自由さ、無垢さ。

この自由さは、あることを知ってしまったことによる不自由さを、パフォーマンスの面では上回ることがある。社会人のマナーを気にしてビクビクしている新入社員よりも、「単に人と人が話すだけだ」と思っている大学生の方が、堂々としていられたりするかもしれない。幼稚園年長より、小学校1年生の方が子どもっぽく見えたりするのも、これが理由かもしれない。

しかしこの「無知ゆえの自由さ」は、一度あるしがらみに捕らわれ、そこでもがき、それを乗り越えることによって獲得した自由とは、やはり質が違う

多分、ある程度自由に振舞っていた大学生の僕らは、前者のような自由を生きていたのだと思う。

 

では僕らは、一時の不自由さ、順応的であることによるもどかしさの時期を味わってでも、より深い自由に向かって発達していくべきなのだろうか?

ある状況ではYesだと思う。

 

全ての状況でそうすべきだとは思わない。

例えば、もしで会社を辞めても構わないと心から思っているのなら、会社のしがらみなんかにとらわれることなく、「自由に」振る舞えるだろう(ただし、それは会社のしがらみを「乗り越えた」自由ではない)。

単にその状況から退くことで得られる自由もあるし、退くことを選ぶことも当然ある。何か一つの状況において、うまく適応したり、その場において自由になれないからと言って、ずっとそこに居続ける必要はない。あらゆる価値は、「空」なのだから。そして、人生には限られた時間しかないのであり、ある状況から退却する判断をすることがあるのは、とても自然なことだ。

 

では、どんな状況において、僕らは一時の不自由さを味わってでも、より大きな自由を手に入れるよう、努力すべきなのか?

「自分が欲望を抱く場所において」というのが、僕のいまの感覚だ。

欲望。インド哲学では、厄介者として扱われがちなこの概念。

でも、単に欲望を退けるだけでは、どこかでまた復活してくるだろう。大事なのは、欲望を理解し、適切な位置に置いてやることだ。

そして、ある種類の欲望を自分が持っていることを理解できたら、それに相応しい行動をとることもできるだろう。その欲望を使って、素晴らしいことを成し遂げることもできるかもしれない。

 

あることができるようになりたい、〇〇な人になりたい。

そういった欲望は、僕らは何かの行動に仕向けさせる。そのとき、自分はその対象に埋没し、それに取り組んでいる自分のことを、「ほんとうの自分」だと思い込む。「私はこの会社の人間だ」「私は〇〇の職人だ」というように。

この同一化は、ヨーガ哲学において「誤った自己認識(アスミター)」として、通常ネガティブに語られる。

しかし、ここを通過しなければならないのである。何かに同一化した先にしか、脱同一化はない。自我を確立した人にしか、自我の放棄は起こらないように(まだ自我が発達し切っていない子どもの無垢さと、自我を確立した後にそれを超越した無私の人の純粋さは、見かけ上似ているためによく混同されるが、このような違いがあるのだ)。

 

何かを、できるようになりたいと思う。

できると嬉しいし、できないと悔しかったり恥ずかしかったりする。

ある場において要求されている規範を学習し、順応しようとする。

「こんなの意味ない」と言って立ち去ることもできるのだけれど、すぐにはそうしようと思わない。

僕の中にあるこういった想いの中に、僕は「欲望」をみるし、「誤った自己認識」をみる

どうやら、僕はここに囚われているようだ、と(「囚」とは、なんと象徴的な漢字でしょうか!)。

 

そしてそれは、チャンスである。

何かに囚われ、そこに欲望を感じ、自分を何者かと思い込むことができる。

幸いなことに、僕は今の仕事に楽しみを見出しているし、その仕事をしている最中は、「自分は〇〇社の人間だ」と思い込むことができている(ことが多い)。

この欲望、この誤解を、より自由になるために活用していきたい。この欲がなければ、決して出会うことのなかった自由さに出会うために、この欲が役立ってほしいと思う。

このような想いで仕事に臨むことは、見かけ上、そして気分の上でも、「もっと仕事ができるようになろう」と思っている「普通の人」と変わらない。この「普通の人っぽさ」が、友人にとってはたまらなく嫌だったようだ。でも、それでいいんじゃないか、と僕は思う。

より大きく、より深さのある自由のために、一時の不自由さ、囚われによって歩みを進める。哲学を先に学んでしまったがゆえに、それが「誤解」であることはどこかわかっている。

しかし、その哲学的認識が可能にした自由さを、実際的なものとしてこの世に描き出し、実際に自由な人としてこの世で振る舞うためには、ある場所において「(誤った)同一化→脱同一化」のプロセスを辿る必要がある

そしてすでに、ある場所に対して同一化を始め、抱き始めてしまっている欲が自分の中にあることを認めるなら、その誤解、その欲と共に始めるほかないだろう

 

「仕事をする」には、あまりに気難しい哲学を自分の中に抱えてしまったものだと思うが、このように再解釈することで、意欲的に仕事に取り組みつつも、哲学的な理想と調和させることが、不可能ではなさそうだ。

 

(追記)

考えてみればヨーガとは、

何かに同一化する過程(サンヤマ)を促してくれるものでありつつ、

最終的には「真の自己」と「自己でないもの」を見分けること(ヴィヴェーカ・キャーティ)に導いてくれるものである。

つまり、「より仕事ができる人になること」(徹底的な同一化により得られる能力)も助けてくれるし、「仕事ができる、できない、などという視点からも離れること」も促してくれる。

両者は、平面に並べて比較すると矛盾するように思えるが、実際に生きてみると、どのような順序で起こるのかが明確に理解でき、矛盾が気にならなくなってくる。

自分が仕事をしていく過程を、このような見方で捉えることができたという点で、学生のうちにインド哲学を学んでおいてよかったと思う。 

 

誤解への賛歌

これも私じゃない、あれも私じゃない。

今、私だと思っているこれは、じっくりと眺め、循環させ、ちょっと離れてみると、

ただの「私の一部」であって、決して私そのものではない。

より大きな私が流れ込んでくる。

 

この繰り返しなのか?

どこまでいっても「終わり」はないのか?

 

でも、「より大きな私」が流れ込んでくるためには、

まずその「より小さな私」と合一し、十分にそれを生き、全うしてやらなきゃならないみたいだ。

その時、「より小さな私」は、私そのものなのだ。

それは誤解に過ぎないのだけど、誤解することができて本当に良かった。

 

無限なる退屈を味わう代わりに、

日ごとに新しく、大きく、深くなる私の海に、

安らいでいられるのだから。

非-理性ではなく、超-理性を。

 

全てを理性によって検証していこうとする合理性と、宗教、スピリチュアリティって、どうも相性が悪いみたいだ。
スピリチュアリティ=非合理」というイメージを持つ人は多いかもしれない。確かに、そういったコミュニティ(の多く)に立ち入るには、一旦理性による批判能力を放棄しなければならないようなところがある。

けれど、スピリチュアリティは、前-理性的、もしくは反-理性的なのではなく、超-理性的であってほしい。
つまり、理性を「超えて含む」ものであってほしい。

そうであるためには、理性による批判能力を持った人がそのまま立ち入ってきても、それを受け止め、その理性を殺すのではなく、理性をも包み込んで、理性さえ納得するような示し方で、超-理性の地平に連れていってくれるものであってほしい。

僕が、理性を保存したまま超-理性的なものを受け入れられたとしたら、それは徹底的な批判精神の行使の結果、どうやら理性では捉えきれないものがあるらしい、ということに気づいたからであったと思う。

例えば、誰かを信頼するということ。「この人に言われたなら、やってみようかな」と思うようなこと。
それは、理性の放棄、抑圧ではなく、理性では捉えきれないものを知るために、理性の方が喜んで降伏したような経験だった。
「なんでこのポーズが、自分にとって良いものなのか?」そういう種類の問いは、いくら考えても分からず、そこに自分を服従させて、一定期間過ごしてみるということによってしか分からないから。
これは、理性を保存したまま、超-理性的な地表に立ち入るためのひとつのルートだと思っている。

皆さんは、どう思いますか。どういう種類の経験が、理性を捨て去ることなく、理性を超えるところに連れていってくれると思いますか?

生命と言葉について

意識というのは、システミックな存在である我々のほんの一部でしかない。

他を振り切って自己中心的に閉じていく意識と、より賢明に全体を巻き込んで働く意識には、どのような違いがあるのだろう?

 

後者のような意識であるためには、意識をどのようにセットしたらよいか?

ヨガにおいては、「呼吸の心地よさ」をひとつの基準として設けると、うまく機能することが多いのだけど、それが機能しない人もどうやらいる。

 

大事なのは、語られることの内容ではなく、その実践において何が起こるか、である。

「生命に直接ふれる (direct intimacy with Life: マークウィットウェルによるヨガの定義のひとつ)」経験を、各人に提供できる、ということは真であり得ても、

そこから引き出された生命についての言明が真であることはあり得ない。

 

生命についての記述は、生命そのものではない。当たり前だけど。

生命について引き出されてくる記述は、必ずその発言者の文化、教養、信仰、価値観などが染み込んだものになる。

その発言において、心身関係に関するなんらかの見方を受け入れているという点において、我々は好む好まずに関わらず、「宗教的」であらざるを得なくなる。

 

 

 

 

ヨーガスートラ・Googleマップ説

卒論執筆中に思いついたこと。

ひとつの例えとして有効かな、と思ったので書いてみる。

「ヨーガスートラは、Googleマップのようなもの。」

それ全てを通読し、見通し、理解することを目的に書かれたものではない。

世界地図を隈なく見尽くして、(世界そのものではなく)世界地図に詳しい人になる。そんなことをしても良いのだけれど、あまり実りあるものが得られるとは思えない。

 

Googleマップは、(全体を見渡すのではなく)ズームして、現在地を特定し、そこから目的地に辿り着くための道のりを示せてこそ、「私にとって」有意義な情報になる。

ヨーガスートラを読む上で、「ズーム」、「現在地特定」の機能を果たすのが、先生との関係だ。

自分が現在どこに居て、それはヨーガ実践者たちが残してきた足跡のこの部分と重なるのか。それは、自分よりも長くヨガを実践している人の話を聴くことによって明らかになる(場合が多い)。

また、「目的地はどこか?」という問いも、自身の実践と、先生との会話によって明らかになってくることが多い。

ヨーガスートラに書かれている「最終目的地(サマーディについての記述)」を参照するのも良いのだが、それは日本にいるのに「南極に着くとどんなものが見えるか」を聞かせれているようなもので、あまり実感を持って聞ける話ではない(時折、思想上の極地点を見ておくのは、それとの対比で自分の現在地を知るために有効であったりはするのだけど)。

 

むしろ、現在地にズームしたまま、次に自分はどんな道を歩むかの「方向性」と「直近の未来」を示してもらった方が、実践的な知識になると思うのだけど、どうだろうか。

そのような知識なら、「自分にはまだ理解できない」「まだまだ知らないことがたくさんある」といった苦しみや不足感を味わうことなく、すんなりと理解できると思うのだけど、どうだろうか。

 

さて、実際に地図をズームしたまま、次に進むべき道も明らかになったのなら、実際に歩む足取りとして、自分自身のプラクティスが必要になるのは言うまでもない。

 

 

 

 

ベイトソンの学習Ⅲ、僕のヨガのこと

ベイトソンの学習理論によると、

学習Ⅰ・・個々の具体的問題を解決すること

学習Ⅱ・・学習Ⅰにおける問題のコンテクストの性質を理解し、学習Ⅰの速度を上げること、性格、パラダイムの形成

学習Ⅲ・・自分のパラダイムの恣意性を突如悟り、人格の根本的変容を伴うような学習

 

例えば、「箸を使うことを学ぶ」のは学習Ⅰである。

「箸を使う」「鉛筆を使う」「包丁を使う」などの様々な学習Ⅰが積み重なると、それらを総合した「道具を使う」という学習Ⅱに移行する。

ここでは、個別の行為を学ぶだけでなく、学習することを学習する、つまり「道具を使うとはこういうことなんだ、箸を使って食事が便利になったように、料理にも畑仕事にも手で扱える道具を発明し、使えば良いのかもしれない・・」と、道具を用いた物事の操作そのものに習熟することになる。

一般に「性格」や「パラダイム」と呼ばれるものは、この学習Ⅱの寄せ集めである。

これを一旦獲得すると、それ自体を変えることは難しくなる。

「テクノロジーを用いて世界を操作する」というパラダイムを手に入れると、たとえ操作に失敗したとしても、「操作の仕方」が悪かったということになり、「操作」そのものをやめようとはなかなか思えない。

しかし、このパラダイム自体の変更を迫るような体験があり、それを学習Ⅲと呼ぶ。

 

わかりにくいので、具体例を挙げてみたい。

僕は、ヨガの練習を知る前、「自分の意志」なるものを用いて自分の人生をよきものにしようともがいていた。その時に参照した「よきもの」の中には、一般的に言われる成功や徳だけでなく、ヨガにおける「ヤマ・ニヤマ」なども含まれていた。

例えば、「傷つけてはいけない(アヒムサー)」、「嘘をついてはいけない(サティア)」などの倫理的描写を、守るべき戒律のように、自分に課していた時期もあった。

そこで想定されていたパラダイム、つまり僕がそれまでに積み重ねてきた学習Ⅱは、「自分の意志を以って、自分の人生のありようを規律化していく」ということだった(「性格」として描写すると、「規律的な人」、「自制心の強い人」、「真面目な人」といったところか)。

規律化の内容が、ビジネス書に基づいていても、仏教に基づいていても、ヨガに基づいていても、それは同じだった。

そこで問題になるのは、「この世界観(つまり学習Ⅱ)は、端的に誤りなのではないか?」ということだ。

ベイトソンサイバネティクスをモデルにして明らかにしたことは、「精神 mindは出来事に関わる関係性全体が帯びるものである」ということだ。

「自分の人生をよくする」という出来事には、僕の「意識化された自己」だけでなく、無意識の部分や、身体的特性や、周囲の関係性、社会、地球のエコシステムといった膨大な要素が関わっている。

精神とは、このうちのどれかのみに局在するものではなく、全体に偏在するものである。これは、「部分が全体を統御することはあり得ない」ということとイコールだ。

この事実から、「精神過程のほんの一部でしかない意志の力で、全体をコントロールしようとすることなど不可能」という、一種の倫理が引き出せる。

 

ベイトソンが挙げたアルコール依存症者の例では、彼らが自らの症状を以って、一般的に流布する世界観の誤りを証明する。つまり、「強い意志を持った自己」が、その他の部分をコントロールするというやり方では、決して治癒に辿り着くことなどできないということを、「意志が負ける」ことを以って証明する。

アル中患者は、「もう自分にはどうすることもできない」という「どん底」の経験を通して、「自分+酒+無意識の自己+社会+・・・」というより大きな自己を受け入れるに至る。そして、「より大きな力が、自分を正気に戻してくれることを信じるに至る」。それが、彼らにとっての学習Ⅲであった。

 

ヨガにおいて、僕はもう少し優しいやり方でこの壁を乗り越えることができた(できつつある)と思う。

鍵になったのは、マーク・ウィットウェル先生の次の言葉だ。

生命は完璧に機能し、すべてのものに対処している。

ヨガとは最終的に、生命を心(マインド)の押し付けから解放することであり、パターンをよりよいものに修正することではない。

(中略)

私たちは、方法論のようにして意図的にポジティブなパターンを断ち切ることはできない。それでは生命が問題であり解決されるべきとの思い込みをさらに課すことになってしまう。(中略)

パターンを表面的に断ち切ることはできない。しかし、生命がこの上ない知性であるとの理解のもと練習することはできる。さまざまな言動パターンは、不適切だと感じられたり、不要だと知ったりした時に自然と脱落していく。

私たちは、すでに確立されている、制限されることのない自然、この上ない知性、平穏と力として生きていて、くつろいでいる。

ここにおいて、本物のヨガが生命の自然なエネルギーとして生じる。

生命の自然な運動と関係するものへの反応は持続していて、システムを乱してしまうような意図的な介入を必要としていない。

身体、呼吸、関係性のヨガは、自然で強迫的でない仕方で行われる。

 

 ヨガの練習は、実は自分の意志で決めることなどほとんどないのである。

一旦ヨガを始めてしまえば、自分がどこまで動くか、どのタイミングで動き始めるかは、その時々の呼吸によって決定される。アーサナとは、呼吸への参与 participation in breathであり、マークの言い方で言えば、私たちの中で呼吸しているもの which is breathing us と共にあることである。

さらに、どんなアーサナを行うかも、先人たちの信頼に基づくものであり、自分の意志で決めたとは言い難い。

 

つまり、ヨガのアーサナ、そしてプラーナーヤーマの練習とは、自分の意志で始めるものでありながら、結果的に自分より大きな力に身を委ねていくことである。その時、その「より大きな力」こそ、「自分」だと感じられるようになるかもしれない。

 

マーク・ウィットウェル、そしてJ.ブラウン両先生は、

You are the power of cosmos. あなたはこの宇宙の力だ。

You are the extreme inteligence of Life. あなたは生命のこの上ない知性だ。

You are not who is searching for the truth but you are the truth. あなたは真実を探し求める人なのではなく、あなたが真実だ。

 といった言葉によって、僕にこれを気づかせてくれた。

 

ここに、「学習Ⅲ」が導かれる可能性がある。僕の場合は、この練習によって、「自分の意志なんかで自分の生き方を操作しようとするのはやめよう」と思うようになってきた。そしてそれはただ単に放棄、放縦というわけではなく、「自らの意志を以って、正しい位置に自分を置こう」という決意でもあった。

 

 どのタイミングで、どんな言葉によって、この変容が起き得るか。それは定式化できるものではない。しかし、ヨガの練習が、「自己の意志を以って自分や世界を制御しようとする」という、我々に染み付いたパラダイムを打ち破るひとつの手法であることは、提示可能な事実であると思われる。

 

 とはいえ、習慣として積み上げてきた「学習Ⅱ」は、そう簡単になくならない。これは個人単位で積み上げてきたものでもあるし、西洋文明を中心にした僕らの近現代的な価値観が積み上げてきたものでもある。

 だからこそ、絶え間ない練習が必要だし、「より大きなもの」との関係で、自分を適切な位置に置く、という調整が必要なのだと思う。