ヨガは何を「つなぐ」のか
・つなぐ、結びつけること
・今まで到達できなかったものに到達すること
・現在の完全性をただ抱きしめること
・注意深く行為すること
・神など高次な存在と結合すること
・マインドをひとつの方向に向け(、その結果マインドの揺れ動きが止ま)ること
これらはすべて、「ヨガの定義」として示されているものである。
それぞれ、違うことを言っているようにも見えるが、どれも「ヨガ」という言葉を説明するのに用いられているため、何らかの結びつきがあるはずだ。
これらがどのように結びついて、「ヨガ」という概念を形作っているのか?
これらを結びつけたひとつの説明として、「分断されていた(ようにみえる)ものが、ひとつになること」ということができるだろう。
「今まで到達できなかったものへの到達」は、何らかの理由で自分と分断されていたものと、ひとつになることと解釈することができる。
「神」や「高次な存在」も、その人が分断を感じ、そしてそれとひとつになっていくプロセスを踏むなら、それはヨガだ。
「注意深い行為」とは、行為する身体と、あれこれ思考するマインドが、一体となって行為することだと言える。
「ひとつになっていく」プロセスに必要なのが、パタンジャリの示す citta vrtti nirodhaつまり「マインドをひとつの方向に向けること」なのだろう。
そして、何かがつながっていく過程は、実は元々「1」だったことを知るだけのことだ。だから、「私が分断されていたものを統合するんだ!」などと力むことなく、今与えられている完全性をただ味わえば、そこに「つながり」はある。
この「つながる」過程の副産物として、
病の治癒や、エコロジーへの敬虔さや、宗教的な恍惚や、他者との親密な一体感や、美的な目覚めや、世界への包括的理解、
などが生じるかもしれない。
と、ここまで「つなぐ」という言葉を連発した所で生じる疑問は、「何と何をつなぐのか?」ということだ。
ヨガにおいて、それは明記されていない。
「これとこれをつなぎなさい」などと対象が指定されていない。
これが、実践論であるヨガの、本質的なポイントだ。
ヨガは、人に実践されるべく作られたもので、ということは、
我々はそれぞれ異なるスタート地点から出発する。
何をありありと感じるか、何を重要だと感じるか、それも人によって様々。
だから、その都度、各人が、問題にしたいポイントで、世界のあちこちで、「縫合」を起こす。それがヨガの実践だといえる。
ヨガは、それぞれの人の実践を促すために、「何をつなぐか」という対象を示していないのだろう。
(続く)