的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

ヨガは何を「つなぐ」のか

・つなぐ、結びつけること

・今まで到達できなかったものに到達すること

・現在の完全性をただ抱きしめること

・注意深く行為すること

・神など高次な存在と結合すること

・マインドをひとつの方向に向け(、その結果マインドの揺れ動きが止ま)ること

 

これらはすべて、「ヨガの定義」として示されているものである。

それぞれ、違うことを言っているようにも見えるが、どれも「ヨガ」という言葉を説明するのに用いられているため、何らかの結びつきがあるはずだ。

これらがどのように結びついて、「ヨガ」という概念を形作っているのか?

 

これらを結びつけたひとつの説明として、「分断されていた(ようにみえる)ものが、ひとつになること」ということができるだろう。

「今まで到達できなかったものへの到達」は、何らかの理由で自分と分断されていたものと、ひとつになることと解釈することができる。

「神」や「高次な存在」も、その人が分断を感じ、そしてそれとひとつになっていくプロセスを踏むなら、それはヨガだ。

「注意深い行為」とは、行為する身体と、あれこれ思考するマインドが、一体となって行為することだと言える。

「ひとつになっていく」プロセスに必要なのが、パタンジャリの示す citta vrtti nirodhaつまり「マインドをひとつの方向に向けること」なのだろう。

 

そして、何かがつながっていく過程は、実は元々「1」だったことを知るだけのことだ。だから、「私が分断されていたものを統合するんだ!」などと力むことなく、今与えられている完全性をただ味わえば、そこに「つながり」はある。

 

この「つながる」過程の副産物として、

病の治癒や、エコロジーへの敬虔さや、宗教的な恍惚や、他者との親密な一体感や、美的な目覚めや、世界への包括的理解、

などが生じるかもしれない。

 

と、ここまで「つなぐ」という言葉を連発した所で生じる疑問は、「何と何をつなぐのか?」ということだ。

ヨガにおいて、それは明記されていない。

「これとこれをつなぎなさい」などと対象が指定されていない。

 

これが、実践論であるヨガの、本質的なポイントだ。

ヨガは、人に実践されるべく作られたもので、ということは、

我々はそれぞれ異なるスタート地点から出発する。

何をありありと感じるか、何を重要だと感じるか、それも人によって様々。

 

だから、その都度、各人が、問題にしたいポイントで、世界のあちこちで、「縫合」を起こす。それがヨガの実践だといえる。

 

ヨガは、それぞれの人の実践を促すために、「何をつなぐか」という対象を示していないのだろう。

(続く)