〈やや力作〉ヨガ・サーダナにおける「自己」認識の変化
ヨガにおけるサーダナ(実践:あなたが実際に行えること)。
アーサナ(呼吸に合わせて動く身体運動)とプラーナーヤーマ(身体の動きを止め、坐って行う呼吸の調整)。
これらによって、「自己」というもののとらえ方が変化することがある。
アーサナとは何か。
身体と呼吸を結びつけること、というのがその第一義的な目的と言ってよいだろう。
通常、僕らはそのような動き方をしていない。呼吸の方は一息つきたいのに、身体はすぐに仕事に向かわなければならなくて、すぐに動き出す、なんてことが当たり前にある。
だから、まずは身体と呼吸を結びつける。
ただし、呼吸の方を身体に合わせるのではなく、身体の方を呼吸に合わせる、というやり方で。
まず、生命の不如意な運動として、呼吸がある。その流れを阻害せず、身体の動きの方を意識的に沿わせていく。そうすることによって、生命の自然な流れに介入せず、加わっていくことができる。
(大勢で一斉にポーズをとる大衆的ヨガクラスは、インストラクターの掛け声に合わせてポーズをとるため、身体の動きの方に呼吸を合わせる、という逆転が起こりやすい。しかし、このやり方ではヨガにとってのプラーナ=生命ともいえる核が失われてはいないだろうか。)
アーサナにおいて、「自己」の認識は、境界のはっきりした「身体」から、境界の曖昧な「呼吸」の方に移っていく。
つまり、皮膚ではっきりと区切られた個 individualとしての自己から、空間にぼんやりと広がるグラデーション状の運動の方を「自己」ととらえるようになる。
呼吸と身体が結びつき、ひとつの運動として感じられるようになったら、身体の動きを止めて呼吸を調整するプラーナーヤーマに移る。
プラーナーヤーマとは、アーサナによって呼吸と身体が結びついた後のみ行うことができる、特殊なサーダナ(実践として行えること)である。(いつでも行えるわけではなく、アーサナの後でなければならない。)
プラーナーヤーマにおいて、身体は動かさないため、皮膚で区切られた有限なものとしての身体は、さらに存在感が薄くなり、境界のないlimitlessな呼吸の方が、より意識される。
そして、瞑想が起こる(かもしれない。ここからはサーダナ、実践できることではなく、実践の結果訪れるかもしれないギフトだ)。
ここにおいて、呼吸は意識のレベルを超える(ヨーガスートラ2.51)。
その時、自己という感覚は消え、ただ在るということのみが在るかもしれない(nirbija samadhi?)。
もしくは、何かひとつの方向に強く意識が向き、そこに没入するような感覚になるかもしれない(sabija samadhi?)。
瞑想の前に先立つのがプラーナーヤーマであるため、この時点ですでに「自己」は、境界が曖昧で、limitlessなものである。この曖昧な「自己」を以て、ある対象への没入が起こる。もしくは、自己が融解し、世界に溶け込む。
このような自己認識の変化が、ヨガ実践の中には認められる。
「瞑想」以降で述べたことは、意識的な実践が不可能な領域であり、それが起こるかどうかも不確実ではある。
しかし、サーダナ(今、ここから行えること)として与えられているアーサナとプラーナーヤーマにおける自己認識の変化は、多くの人にとって体験可能な事実だろう。
なぜ、僕がその自己認識の変化にこだわるか。
それは、人類全体にとって大切な変化のように思えるから。
人ひとりの実践として始めたことが、関係性の、人類の、世界全体の癒しに拓けていくような可能性を秘めているように思うから。
境界のないものとして自己をとらえるようになった時、関心の対象も、癒しの対象も、また境界のないものになってゆく。
自分の吐く息と吸う息のバランスに気を遣うようになった個人は、自分の属する会社で男性と女性のバランスについて考えるようになる。
呼吸による快適さの尊さを知った個人は、自然の浄化能力を超えて大気を汚染してしまうような文明のあり方に耐えられなくなっていく。
そのような個人が増えていくことに、僕は希望を感じている。
(余談)
ところで、最近面白いことが明らかになりつつある。
僕が講師を務めさせてもらっているHridaya Yoga Schoolという所の生徒さん達が証明してくれつつあることなのだが、
それは、「アーサナを行う段階で、そこまでやる気がなくても、とりあえず行ってみるとヨガは機能する」ということだ。
ヨガに誠実に向き合いたいと思っている人ほど、きちんとやる気を持って、マインドを集中させてアーサナを行いたい、と思うだろう。
しかし、このこだわりが強すぎると、「今日はそこまで乗り気じゃないから、今日はやらない。そんな自分を大事にするのもいいよね。やりたい時にやればいい」となり、練習量が減りがちだ。
しかし、上で確認したように、アーサナの第一義的な目的は、「身体と呼吸を結び付けること」だ。
マインドが散漫でも、ひとまず呼吸に合わせて身体を動かす。
通常、僕らは身体の動きや呼吸に対して無自覚だ。
だからこそ、呼吸のリズムで身体を動かそうとすれば、マインドはそこに向かざるを得ない。
やる気がなくても、アーサナを行い始めてしまえば、マインドは呼吸、身体と共に協働せざるを得ない。
しかしそこに、ヨガを愛好する人がイメージするような「没入感」はないかもしれない。
淡々と、ルーティンのような、味気ない感触かもしれない。
それで、よい。
それでも始めてしまえば見事に機能してしまうだけの叡智が、ヨガの体系には組み込まれている。