的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

メタファーを組み替え、花粉症に対処する。

僕らは、メタファー※1(隠喩、物語)を用いて考える。

あるメタファーによって現象を一度とらえると、僕らの知覚作用は、そのメタファーに浸食されたイメージによって現実を見るようになる。

そのメタファーが、あまりにも不適切にも関わらず、よく吟味されずに用いられていることがある。

そして、改めてそのメタファーを組み直すことで、現実のとらえ方が少しはマシなものになるかもしれない。

 

というような文脈で、もう一度花粉症についてもう一度考えてみる。

 

一般的に流布している、「花粉を敵として捉え、どうにか締め出そうとする努力」は、どう見ても不適切なメタファーにみえる。

そこで、「マインドボディーヒーリング」というメタファーによって、捉え直すということを行った。(参照『花粉症になんか、させられるんじゃない!』

しかし、この枠組みを以て現実に臨んでも、症状が改善しないことがある。

 

特に難しいのは、「イヤ!」と感じている心に対して、いかに話しかけるか。

これは、泣いている子どもをいかにあやすか、ということに近く、決して定式化できない。

もうちょっと一般化して言うと、

「あなたが愛する人に対して、その愛を示すための然るべき方法については、どんな科学を以ても、決して定式化されないだろう!」

といったところか。

愛に満ちた気遣いをするには、その都度新しくなくてはならない。

それは、斬新なやり方を発明する必要があるというより、毎回未知なものとして現象に臨む必要がある、ということだ。

 

そして、時には斬新なアイデアが功を奏すことがある。

花粉「症」というメタファーに捕らわれてどうしようもない時、マインドボディーヒーリングのことも忘れて、全然違う視点で、花粉のことを想ってみた。

 

ああ、あなたも、我々人間と同様に、不条理に増えすぎた種なんだな、と。

僕ら一人一人が、訳も分からないまま、しかし増え続ける人口の一項として生まれたのと同様に、あなた達も人間によって埋められ、不条理なほど増え、しかし生きているからには生き続け、花粉をばら撒かざるを得ない哀れな(?)種なんだね、と。

 

そして、輪廻転生というアイデア(これもまた、ひとつのメタファーである)を受け入れるなら、あなたはかつて私だったかもしれない。あるいは、私の母だったかもしれない…

 

と、こんな戯れをしてみると、明らかに私‐花粉の関係が組み替わる。

私と不可避的に関わってしまう花粉という「異物」は、ある関係においては「敵」だが、僕らの対応次第では、新たな調和を作り出し、一緒にダンスを踊る関係になれるかもしれない。

 

癒し。それはいつも最後にくるべきものなわけではないが、それでも、この関係性における新たな調和が、最後に癒しをもたらしてくれることを、有限な「私」は望んでいる。

おそれ。それは見ないようにするべきものではなく、見方を変えてやるべきもの、そして、徹底的に見てやるべきものだろう。

 

時には排除もしたくなる「異物」も含めて、多種多様なもの、人との出会いが、より大きなシステムとして、私に新たなダンスを踊らせてくれますように!

苦しみを含めた雑多な経験が、私が編み上げるこの生に、豊かな実りをもたらしますように!

 

さて、私はこの「異」なるものと、どんなダンスを踊れるだろうか?

 

例によって深夜(早朝)に書いた文章なので、支離滅裂かもしれないけれど、ひとまずこのまま上げておく。

 

 

※1「メタファー」

隠喩というと、詩などで用いられる「たとえ話」のようなものを思い浮かべるが、ここで扱っているのはもっと広義だ。

事実、あらゆるコミュニケーションはメタファーである。

「現実が、あたかも記述したその様であるかのように、記述をする」

to describe as if the reality is how we describe

というやり方によって。

例えば、DNAが遺伝情報を伝える際のコミュニケーションだって、現実を「ありのままに」伝えているのではなく、DNAなりに切り取った「こんな感じ」というメタファーを、あたかも現実そのものであるかのように伝えているのだ。

「そんな言い方、現実そのものじゃないでしょ!」というツッコみを「しない」ことによって、僕らのコミュニケーションは円滑に成り立っている。