的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

拡大・縮小・何が起きているか?

久しぶりに、時間をまったく気にせずにプラクティスをした。

ここ最近忙しくて、プラクティスはするものの、いつも終わりの時間を気にしながらの練習になってしまっていた。

 

現代人である僕らの多くは、時間の中に位置づけられ、次はこれ、その次はあれ、というように自分の行動を律せざるを得ない。

それが、ここ数日は、プラクティスにおいてもそうだった。

 

ヨガをして、この10分後には職場に行く・・

ヨガをする最中にも、この意識が頭から離れなかった。

もちろん、完全にこのことを忘れてしまったら、社会的に機能しない。

 

だが、常に「次は○○をして」という考えにとらわれていると、本当に「次は○○をする」ような存在、として(のみ)自分をとらえるようになってしまう。

10分後は会社に行く人として、5分後にはお弁当をつくる人としてのみ、自分をとらえるようになってしまうのだ。

 

もちろん、そのような事を為していく存在には違いないのだが、

しかし、あらためてここを眺めてみると、「次に為すべきこと(として我々が頭を捉えられていること)」以外にも、もっと大きなスパンで、もしくはもっと小さなスパンで、いろいろなことが起きている。

 

自分を宇宙の脈動の一部として、何百年後にもうねりを残し続けるひとつの波として感じることができたら、

実際にそのような存在として行為することが少し上手になるかもしれない。

目先の小さなことに囚われず、より長いスパンで自分(ないし地球ないし世界)にとって、よい選択ができるかもしれない。

 

自分を微細なひとつの運動として、心臓から腕に向かって血液を流す生命の努力として感じることができたら、

より小さな(見逃しがちな)出来事さえも丁寧に拾えるかもしれない。

実際に次の雑務をこなしていく際にも、ちゃんとサポートしてくれているその微細なプロセスを、愛おしく感じられるかもしれない。

 

こんな壮大もしくは微細な話を想定しなくてもよいのかもしれないが、

この視点のずらし、拡大ないし縮小は、ひとつの物語にとらわれっぱなしの日常を送り続けるよりは好ましいように思う。

 

もうちょっと言うと、この視点の拡大ないし縮小がなければ、

人々は(社会的、家庭的な意味での)「個人」という単位でしか自分や世界をみなすことができなくなる。

これは、おそらく、地球にとって好ましくない。

 

だからこそ、雑多な日常、次から次へと為すべきことを考えなければならない世界の中においても、

そのような時間軸とは別のところで(無視をするわけではなく、パラレルにという意味で)行為しているという自覚をすること。

そんな取り組みが、僕には必要だし、たぶん多くの人にも必要なのだと思う。