的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

「何でもヨガ」論と、「ハタヨガ原理主義」

ちょっとでもヨガについて勉強してみると、その扱う範囲の広さに圧倒される。

単なる身体的なエクササイズだと思って入ると、道徳的、社会的なことまで口を出してくるヨガの広範さに、「何これ?」となる人は多いのではないか。

 

そして、この辺りでこのような言葉に出会うだろう。

・ラージャヨガ(瞑想のヨガ)

バクティヨガ(信愛、熱烈信仰のヨガ)

・カルマヨガ(行動のヨガ)

・ジュニャーナヨガ(智慧のヨガ)

・ハタヨガ(身体運動を伴うヨガ)

 

特にカルマヨガの姿勢に触れると、やること為すこと何でもヨガ、と言ってのけたくなる。

バガヴァッド・ギーターを読むと、現代のハタヨガでイメージされる身体運動は一切行われず、クリシュナ神からひたすらヨガの思想を説かれ、迷わず行動するよう勇気づけられる戦士アルジュナの姿が描かれている。

 

一方で、現代「ヨガ」と名前のつく実践、指導は、やはりアーサナ(身体運動)、プラーナーヤーマ(呼吸)を中心にしたハタヨガの実践から行われることが多い。

 

そして、僕の実感としては、このアーサナ、プラーナーヤーマの位置づけが、行う人によってまちまちなのである。

 

よくある解釈としては、

アーサナは瞑想の準備である。体操として、快適な身体を準備するもの。

アーサナも瞑想そのものである。禅において、掃除など一挙手一投足が瞑想であるのと同様に。

③あるいはそんなこと考えず、ただ楽しいから、もしくはただ鍛えたいから、ひたすらに身体を動かしている。それが瞑想につながるかなんて考えない。

 

③は無視しておいて(たぶんそれなりに多いのだが)、

僕としては、①、②のどちらも否定はしないが、完全に納得もできない。

 

①の解釈では、アーサナは、のちに瞑想で坐る際の準備ができれば何でもよいことになる。そして、アーサナ自体は、ヨガそのものではないと言われたりする。あくまで準備だ、と。そしたら、別にアーサナじゃなくても、身体を整える体操やエクササイズなら何でもいいじゃない、となる。

そうではない、と思う。

①へのカウンターとしてよく出てくるのが②だが、これはこれで、アーサナをやる意味が分からなくなる。「何でもヨガ」なら、とりたててアーサナをしたり、坐って瞑想したりする意味が分からない。

ただ、やること為すことへの態度を気をつけていればよいことになる。

それも違う、と思う。

 

では、僕の立場はどうかというと、

アーサナには、瞑想を導くための、代替不能な意味がある」ということだ。

そして、そのカギは、「呼吸のために動けているか」というところにある。

何でもよいわけではない。

ただやみくもに動けばよいわけでもない。

アーサナそれ自体が、呼吸を拡張し、強化し、自然にプラーナーヤーマ(字義通り解釈すれば、「プラーナ(呼吸、生命力)を引き延ばすこと」)を促すものになっているか。

そして、自然に導かれた呼吸の拡張が、瞑想をこれまた自然に促すものになっているか。

アーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想が、それぞれそうでしかあり得ないものとして、この順番で、有機的につながり、代替不能な仕方で用いられる。

これが、「ハタ・ヨガ」だと僕は思っている。

 

そして、現代の人々の多くに、「サーダナ(今ここから、実際的に行えること)」として勧められるのは、ハタ・ヨガ以外に思いつかないのだ。

実践を始める契機として重要だと思うのは、

①迷わず、それに専念できること

②絶対にできること、何ならすでに少しやり始めていることから始めるということ

③できることに専念している結果、豊かな実りが自然に得られるということ

こんなところだ。

 

もし、もともと身体に問題がなく、悩みが少なく、自然体で生きていて、坐ればいきなり瞑想状態に入れるような達人なのであれば、ラージャヨガ(だけ)でよいのかもしれない。

 

もし、一切迷うことなく、熱烈に信仰する対象がいるなら、それを利用して「バクティヨガ」が可能かもしれない。

しかし、これだけ世界的な交流があり、多様な考えに触れられる現代において、そのような人は稀な方だろう。

 

もし、自分の仕事に一切迷いがなく、「これを為すことこそが自分の人生の義務だ」と言い切れるのなら、それに打ち込むことで「カルマヨガ」になるかもしれない。

しかし、これだけ職業選択の余地がある現代において、「ほんとうにこれが私のやるべきことなのかな」などという迷いを一切抱かないということは、なかなか酷だろう。

 

もし、生活上の必要に心煩わせることなく、ヴェーダの真理の探究だけに専念できるような立場にいるのであれば、「ジュニャーナヨガ」が可能かもしれない。

しかし、今やインドですらカーストが崩壊しつつあり、経済的心配をせずに学問的探究だけしていればよい人は、あまりいないだろう。

 

このように見ていくと、「身体があり、呼吸している」という条件さえあればひとまず実践できるハタヨガは、かなり多くの人に開かれているように思える。

そして、さらに言うなら、「生きているだけで我々はハタヨガ「男性、太陽」「女性、月」ヨガ(融合))的に存在している」。

どういうことかというと、僕らは必ず両親の交配によって生まれているし、吸ったら吐かないと生きていけないし、酸素を吸い入れるだけの柔らかさと、二酸化炭素を吐き出すだけの強さを備えていなければならない。

その生命の両極的な運動を、少なくとも身体の一部では行っている。

意図していなくても、肺は膨らむし、お腹もちょっとは動いている。

ハタヨガにおけるアーサナとは、すでに生じているその生命の運動に、全身で加わり、強化していくことに他ならない。

だから、おおよそ誰でも始められるし、なんならすでに少しは始めているのだ。

 

「ヴィンヤサ・クラマー」。練習の順番を守るということ。

ハタヨガで言うなら、呼吸のために、呼吸の心地よさを超えない範囲で、全身を動かすこと(アーサナ)から始める。そして、その動きから自然に深まった呼吸を眺める(プラーナーヤーマ)。

ここまでが、サーダナ(できること)

 

それらの結果、瞑想(ダーラナー、ディヤーナ、サマーディもしくはラージャヨガ)が訪れるかもしれないし、

不要な習慣はなくなり、必要なことだけ為すようになるかもしれない(ヤマ、ニヤマ)し、

何かへの感謝が芽生えるかもしれない(バクティヨガ)し、

行う仕事に専念できるかもしれない(カルマヨガ)し、

大きな智慧が湧くかもしれない(ジュニャーナヨガ)。

これら、「かもしれない」系のことは、「シッディ(恩恵)」

取り立てて意識する必要はないと思う。

 

以前の僕は、ヨガの教師の多くが、いろいろ言っても結局最後は「ヨガをしましょう」という話しかしないのが少し嫌だった。

でも今は、むしろ僕自身も積極的にそのことを主張している節はあるし、違和感もほとんどなくなった(この変化は、結構大事なことだと思う)。

 

なぜなら、現実的に、これくらいしか提案できることがないと思うからだ。

そういう意味では、「ハタヨガ原理主義」とでもいえる立場に近づいているかもしれない。

 

これだけ多様な考えがあり、しかも「多様さを認めるのが大事だ」とさかんに言われる世の中において、こんなことを主張するのは少し勇気がいる。

この文章を読んで、批判された気分になった人もいるかもしれない。

 

今回、僕がこの文章で示したかったのは、

「ごちゃごちゃに語られがちな『ヨガ』という言葉を整理し、その上でハタヨガが、アーサナがどんな価値を持つのか確認しよう」ということである。

そして、「現実的にできることから始めよう」ということである。

それが、僕にとってはアーサナから始まるハタヨガであり、たぶん、多くの場合あなたにとってもそうだ、ということだ。

 

もちろん、健康状態や障害、あるいは環境によって、ハタヨガの実践さえ難しい場合もあるだろう。

そういう人達に、僕はどんな力になれるか。

「僕に」何ができるのかという問いに立ち戻ってくる時、やはり与えられたものから出発し、できることを為していくしかないと思うのだ。

 

 

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  左から僕、父、姉の後ろ姿。

 今年もよろしくお願いします。