体和 Tai-wa 日記

休学中の大学生。ハートオブヨガ@つくば。ヨガ日記、読書記録、身の回りの出来事など

ぐちゃぐちゃのままで

できる限り、すべての人、もっと言うとすべての生命体を射程に入れて思索したい。

それらを貫く共通の次元に目を向けることも可能なような気がする(例えば、「生命」、「存在」などを思索することによって)。

 

だが、同時に僕らは生きている一個の有機体であり、有限な勢力範囲を持つ。

原理的に、「すべての生命体の〈存在〉に肯定の目を向ける」ことは可能であっても、「僕らが生きつつある」という次元と同時に考えようとすると、大変だ。

 

早い話が、依然として「イヤ」なことはあるし、「嫌いな人」もいる、ということだ。どんなに「生命そのものに直接触れた」気になっても、「存在しているというそのことが神秘だ」と言っても。

 

普遍的なものが、間違いなく僕らを貫いていて、しかもそれは「ここ」にも「そこ」にもあるということ(=特権的な場所などなく、すべての場所が「聖なるもの」とも言い得るということ)。

一方で、僕らは「ここ」をより重視すべく生きている限られた閥を持つ有機体であるということ(あいつよりも「自分」を優先してしまう業深い動物であること)。

 

この二つの次元を混同してしまうことは、おそらく、G.ベイトソンが「論理階型」という言葉を以て明確化しようとしたことに近い。

 

言語は、有限な生きている有機体が扱うには、柔軟すぎる。

だから、「個」という勢力範囲を大きく超えたところまで、思索できてしまう。

言語のこんな性質が、僕ら人類を悩ませてもいるのだろう。

 

例えば、

A「快適に生きたい」

B「快適に生きるために、必要な情報を素早く得たい」

C「快適に生きるために、必要な情報を素早く得るために、WiFiを街に張り巡らせたい」

D「快適に生きるために、必要な情報を素早く得るために、Wifiを街に張り巡らせるために、配線工事の許可を早くもらいたい」・・・

 

こんな感じで、無限に入れ子構造を作って思索できてしまう。

Aでは、自らの生を直接味わい、そこにおいての極めて個人的な次元だったにも関わらず、Dくらいになると、もはや「生きている私」の感触はそこにない。

「許可をもらう」という行為を実行するためのマシーンと化す。

 

だから、視線を「生」という地点に向け直す営み(例えば、ヨガ)が重要なのは明らかだ。

 

だが、なのだが、

ヨガのような経験を積んでも、哲学的思索によって「存在」に触れても、依然として、僕らは有限な閥を持った存在として生き続ける。

 

有機体として生きるとは、最適値を持ち、それを超えたら生きていけないような最大値と最小値を持つ変数が、体中にあるということである。

エントロピーが増大する世界の中で、それらを維持し続けるということが、生きるということに他ならない。

腹が減れば自己中心的にもなるだろう。

僕らの道徳に罪があるのではなく、生きるとは原理的にそんな状況と折り合いをつけ続けることなのではないか。

 

そうなると??

(続く)