的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

ハロウィンへのお誘い、的な意味で。

「あなたの中で起こっている、呼吸というパーティーは終わらない」

by マーク・ウィットウェル 

 

現にあなたが生きている、という燦然たる事実がある。

その事実に、どう取り合うか、僕らには自由が与えられている。

 

それを賛美することもできるし、そんなことあまり重要じゃないことにして、何かが足りないかのように、何かを追い求め続ける人生を歩むこともできる。

 

あなたが全く意に介さなくても、あなたの中に、あなたとして、そこにいのちは存在している。

ヨガは、この事実を賛美しませんか、と呼び掛ける。

これは、頑張って到達するような境地ではなく、むしろライフスタイルの選択に近い。

 

今年のハロウィン、どうしようかな、ということに似ている。

ハロウィンなんてないことにして過ごすこともできるし、それに加わって楽しむこともできる。

あなたが参加しなくても、ハロウィンは存在している。

もし、参加したいなら、「参加する」と心に決めるだけでよい。

ハロウィンに参加するに相応しい自分になろう、とか、ハロウィンのことを絶対に忘れないようにしよう、なんていう努力は必要なく、ただ「そう思う」だけでよい。

 

僕らが、「いのち」ということにどう向き合うかも、これに似ている。

それは、いつもここに存在しているが故、その気になれば、いつでも賛美しうる。

賛美の仕方を絶対に忘れないようにしよう、とか、この味を覚えておいて、いつでも再現できるようにしよう、などという計らいなしに。

自分を固定したアイデンティティとして扱い、そこによさげな属性をくっつけようと躍起になるような苦しみなしに。

 

この事実を、少なくとも論理的に理解しておくことはできる。

生の神秘、それはすでに与えられているのに、いつか、どこかで、あんな体験をすれば、あの仕事に就ければ、ついに辿り着く、なんていうまやかしに騙されっぱなしでいる必要はない。

 

ただ、物事を分かるにも、いろいろなレベルの分かり方がある

僕なんかは、このことを知的に理解しておくだけでなく、全身を使ってそういう風に生きてみたくなる。

だから、わざわざハタ・ヨーガをするのだと思う。

 

生の神秘に全身が参与した時、知的に分かる、ということとはまた違った分かり方がある

ああ、これでいいんだな、と全身が納得する。

 

だから、ヨガを始めるのに、何かしらのハードルを感じてしまう人は、こう思ってほしい。

「あなたの中で起こっている呼吸というパーティーは、すでに始まっているし、あなたがそれに参加しようと思うなら、いつでも開かれている」

(しかも、ハロウィンパーティーに参加するより、ずっとハードルが低いはず。仮装なんてせずに、そのままの姿で!)

 

 

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(以下、補足。煩わしい方は読み飛ばしてください。)

この文章全体を通して、「生きていること」、「いのち」を「在る」ということとほぼ同義で使った。

厳密に言えば、両者には明確な違いがある。

「在る」は単なる存在で、

「生きていること」、「いのち」は、存在の様式(内容)だ。

 

この両者を明確に区別して論じるべきだ、という見方もあるだろう。

そして、僕らがいつでも賛美しうるのは、むしろ「在る」ということの方なのだ、と。

 

しかし、論理的に必然的なつながりがなくても、現実的に恒常的なつながりがある、というケースもある。

僕らが「在る」ということは、「いのち(身体を持ったり、呼吸をしたりすること)」と論理的に必然的なつながりはないのだけれど、(そうじゃない「在り方」も想定可能なわけだけれど、)

しかし現実には、僕らが「在る」ということと「いのちである」ことはほぼイコールだ

ハタ・ヨーガは、現実的で実践的なツールであり、しかも人間を対象にしている。(カフカの『変身』の主人公のような主体を想定はしていないということ)

 

だから、「在る」というどんな感覚にも置き換えられない形而上的(メタ・フィジカルな)主題を、「生きていることの(フィジカルな)感触」と結びつけてしまうことも、便宜的には許されるのではないか、と思う。

 

そういう仕方で理解した時、「在る」ということと「生きる」ということを別個に論じる方が、むしろ不自然な気がしてくるのだ。