体和 Tai-wa 日記

休学中の大学生。ハートオブヨガ@つくば。ヨガ日記、読書記録、身の回りの出来事など

なりゆくこと、流れること、美

数回にわたって書いてきた『時間の終焉』(クリシュナムルティ/ボーム)のまとめ。

 

「今の自分ではない何かになろうとすることが、人類の苦しみの根源である。」哲人宗教家のJ.クリシュナムルティは、そう言い切る。それを、一般的命題として語ることには、いささか違和感もある。一般論として振りかざすことは、「何にもなろうとしていない状態」という新たな理想状態を作り出し、それができる人、できない人というお決まりの構造を再生産してしまうことにもなりかねない。しかし、実際に起きている現象を基に、そこにおいて「何かになろうとする」という心情が発現してくる端緒を捉えることは可能だろうし、それを避けるための方策を考えることも可能だろう。そのような仕方で、冒頭の命題について考えてみたい。

 

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ある少女の絵日記を見せてもらったことがある。最初の方のページに描かれた絵には、ある特徴があった。彼女の絵は、まず輪郭を描き、それから中を塗りつぶしていくという描き方だった。そのため、空白が多く、輪郭の中もただ色で埋め尽くしている、というような印象を受けた。その描き方は、彼女が自分で見た世界を表象するのに適した方法というよりは、「絵とはこういうもの」といったような先入観によるものだったと思う。

しかし、絵日記の最後の方のページになると、輪郭から描いて中を塗りつぶすような描き方から、躍動感があり、輪郭が区切られておらず、空白の少ない、目に見えないものの躍動も描写したような絵に変わってきていた。物や人の輪郭をまず区切ってしまうのではなく、それらから溢れるエネルギーをそのまま絵にしたような表現の仕方は、以前のものとは明らかに異なっていた。

 

この間、彼女を変化させたのが何なのかは、正確には分からない。母親の絵を真似したのかもしれないし、輪郭を引く以前の描き方では表現し切れないような体験を彼女自身がしたのかもしれない。いずれにせよ、少なからず「模倣」という要素は入っているだろう。人間に限らず、動物が成長していくときには、身近な大人を模倣することは欠かせない要素だ。この時模倣とは、「なりゆくべきもの」としての型の役割を果たすわけではない。「なりゆくべきもの」、あるいは「ならなければならないもの」としてのモデルが私たちに突き付けられてくるとき、私たちは安易に理想主義に陥る。掲げた理想状態と現実の自分との間に分離が生じ、(クリシュナムルティが主張しているように)苦しみや葛藤となる。だからこそ、模倣の際に用意されるモデルとは、模倣する人をある型にはめ込むのではなく、むしろ彼/彼女がすでに持ってしまっている先入観を解体する、その外に出ることを促すものとして作用すべきなのだ。そのようにモデルが機能するとき、模倣は束縛としてではなく、自由への導きとして作用するのである。

 

さて、彼女の一連の変化において、「美」はどこにあるのだろうか。端的に言えば、その変化全体が美しいのだと言ってみたい。先入観にとらわれながらもその中で必死に描いていた当初にも、先入観の壊れた変化の刹那にも、そしてその後に行った新しい描き方にも、それらすべてにおいて「美」が存在している。

しかし私たちは、目に見える結果(この場合は変化後に描かれた作品)だけを美しいとしてしまいがちだ。そこには、視覚を重視する私たちの文化の在り様が大きく関わっていると考えられる。

私たちが視覚的に現象をとらえるとき、そこには「像」として世界を固定する作用が少なからず働く。その視覚によって時間の流れを捉えると、(どれだけ細かく刻んだとしても、)時刻A→時刻B→時刻C・・・という点的な捉え方になる。このような仕方で彼女の成長を見たとき、状態A(輪郭を引いて描いていた当初)から状態B(躍動感のある変化後の描き方)への変化と見なし、望ましい変化と見なすからこそそれを称賛する、というような捉え方になる。言い換えれば、彼女への愛が条件付きのものになる。(あくまで評価する側にとって)好ましい変化を見せた限りにおいて、「美しい」などと評価することになる。この発想は、今「A」である人は「B」に向かって成長していくべきだ、「B」こそが目指すべき状態だ、などという理想主義を安易に生んでしまう。

 

このような時間の把握の仕方から、心理的に解放されることの重要性をクリシュナムルティは主張している。心理的に時間概念から解放されるとは何か。それは、自己や世界の現状を「A」と捉え、定義し、それを保持しようと躍起になったり、もしくはよりよい状態としての「B」を想定し、そこに向かって努力したりするようなあり方から解放されるということだ。時間を「A→B→C・・」と点的に捉えるあり方から、「→」だけになることとも言える。考えてみれば、「変化」や「成長」といった概念は、ある点からある点への移行と捉えるからこそ生じる概念だ。

ベクトル的に時間を捉えると、分割して取り出せるような瞬間が存在しないから、「○○であるもの」としてのAや、「○○になるべきもの」としてのBが存在しないことになる。その時、何かになろうとする心理的葛藤も止まる、とクリシュナムルティは主張しているのである。

 

瞬間を取り出して定義したりせず、不断の流れ、運動として時間を捉える。そのように捉えたとき、例の少女の成長は、成長の痕跡としての作品だけではなく、そのような変化が生じた彼女の生全体が美しいのだと評価することはできないだろうか。目に見えるものとしての作品は、私たちに「美」を知覚させ、実感できる形で「美」を顕在化させている。しかし、その作品以外の時間、状態、生は「美」でないのか、というと、私は迷いなくNoと言いたい。

 

「それは美しい」と言った瞬間、即「それ」と「それ以外」の二分化をもたらし、「美」と「美でないもの」の分離も生じさせてしまう。言葉とは本質的に、そういう性質を持っている。世界について語ろうとした時、決して語り切れない歯がゆさの理由のひとつだ。しかし、たえず現象を見つめ直し、語り直すことによって、言語の不完全さを補うことはできる。「美」に対しても、「それ(例えば絵画)が美しい」のだと心理的に限定、固定、定義せずに、あらゆるものに美を見出そうとする感度を持ち続けることは可能だろう。人の成長を見るとき、自らの生を見つめるときも、そのような感度を持っていたいものである。

 

この時の態度は、「見る」ことよりもむしろ、「聴く」ことに近い。傾聴、真摯に聴くこと、それが起こる時、私たちは現象を固定して名付けたりせず、むしろ現象に寄り添い続ける。瞬間を取り出して定義したりせず、絶え間ない変化に対して耳を開き続けるのである。現象を「聴く」ように、寄り添い続けた時、ある瞬間だけを特権的に評価せずに、その流れ全体を、不断の運動として美しいと知覚することができるのではないか。その時、今の状態から他の何にもなろうとせず、ただあるがままを肯定できるのではないだろうか。