ハートオブヨガ、先人たちへの信頼
いのちに導かれて動く。
すると、自分があれこれ考えようと、有無を言わせないほどの強い必然性を感じられたりする。
一人称「私」を大きく超えた、大文字のいのちの力。
さて、ヨガにおける「アーサナ」はどうだろう。
どの程度動くかは、その時のいのちの状態によって、必然的に決定される。
心地よさと安定感が引き出される、丁度よいところ。
さらに、どのタイミングで動きだすかということも、いのちによって必然的に決定される。
すでに生き始めているいのちがあり、それが必要な時に呼吸するから。
というわけで、どんな形に向かって動くか、という動きの方向性だけ、
意識によって決めることになる。
そこに、(必然的とはいえない)人為的な操作が入るように思われる。
じゃあ、なんで僕はこの動きをするんですか?
なんでヨガのポーズって、こんな形なんですか?
端的に答えると、僕の先生がそう教えてくれたから、だ。
(他にいろいろやり方はあって、どれを選択するかは自由だったにも関わらず、)
僕はハートオブヨガの先生に出会い、学び、実践している。
先生たちに会っただけでなく、彼らのことが好きだし、信頼している。
なぜ彼らを好いて、信頼したかに理由などなく、ただ巡りあわせでそうなったのだ(いのちがそう望んだから?)。
彼らは生きる見本として、実践しつつ生きている。そして、彼らもまた、信頼できる先生に教わって、実践を始めたのだ。
実際に生きている者同士の、ありふれた人間関係。
好きな人、信頼している人に、自信を持って勧められたからやってみた、という単純な話。
互いの信頼感と、まさに生きつつある者たちによる絶えざる修正によって、実践は保たれている。
僕らは、人の愛し方など教わっていない。
だが、実際に生きることによって、おのずから人を愛し、まさにそのことによって愛を学ぶ。
僕らは気づいたら何かを好きになって、信頼している。
ハタ・ヨガの動きが、信頼に足るものかなんて、いくら起源を探ってもある程度のところまでしか分からない(でも興味はあるので、僕なりに探ってみようとは思う)。
僕がやっているアーサナの大元である、クリシュナマチャリア(写真)がどんな人だったか、文献などで間接的に知ることはできるとはいえ、憶測の域を出ない。
だから、実際に会った人と、その関係の中で学ぶしかない。
僕が、なぜ、あなたにこのアーサナをおススメするかというと、
あなたがここに来てくれて、僕と出会ってくれたから、としか言いようがない。
僕だって、たまたま先生たちに出会わなかったら、これを知らなかった。
解剖学的に万人向けの動きだとしても、僕らが出会うという奇跡がなければ、これを伝えることはできなかった。
そして、これを受け取って、信頼してくれるかどうかも、また僕の力ではどうしようもないことだ。
人が、ある習慣を継続できるかどうかは、
単にその習慣からの直接的な効果の大きさだけでなく、
それを教えてくれた人への信頼、場の雰囲気の好み、(例えば「伝統」の継承者になることへの)誇り、などなど、
さまざまな付随的要素によって決められる。
そもそもの大前提として、「教えてくれる人に出会う」という要素もある。
出会うという時点で、人生の回転がその実践に導いているのかもしれない。
そして、人は、時に意志や努力なしに何かを愛し、信頼する。
ヨガのアーサナの一見人工的な動きも、この奇跡のような巡りの中にある。
僕は幸運にも、ハートオブヨガに出会えたし、それによってまた新たな出会いもある(そのことによって他の潜在的な可能性を消している、という半面も持ちながら)。
「ヨガに出会わないような人生もまた完璧なのに、あなたはなぜヨガをするのですか?」
ティーチャートレーニングで生徒にこんなことを聞かれたマーク・ウィットウェルは、次のように答えた。
「あなたに会うためです。」
ヨガの動きは、一人の身体上の合理性だけでは説明しきれない。