的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

ハートオブヨガ、先人たちへの信頼

いのちに導かれて動く。

すると、自分があれこれ考えようと、有無を言わせないほどの強い必然性を感じられたりする。

一人称「私」を大きく超えた、大文字のいのちの力。

 

さて、ヨガにおける「アーサナ」はどうだろう。

どの程度動くかは、その時のいのちの状態によって、必然的に決定される。

心地よさと安定感が引き出される、丁度よいところ。

さらに、どのタイミングで動きだすかということも、いのちによって必然的に決定される。

すでに生き始めているいのちがあり、それが必要な時に呼吸するから。

 

というわけで、どんな形に向かって動くか、という動きの方向性だけ、

意識によって決めることになる。

そこに、(必然的とはいえない)人為的な操作が入るように思われる。

 

じゃあ、なんで僕はこの動きをするんですか?

なんでヨガのポーズって、こんな形なんですか?

端的に答えると、僕の先生がそう教えてくれたから、だ。

 

(他にいろいろやり方はあって、どれを選択するかは自由だったにも関わらず、)

僕はハートオブヨガの先生に出会い、学び、実践している。

先生たちに会っただけでなく、彼らのことが好きだし、信頼している。

なぜ彼らを好いて、信頼したかに理由などなく、ただ巡りあわせでそうなったのだ(いのちがそう望んだから?)。

彼らは生きる見本として、実践しつつ生きている。そして、彼らもまた、信頼できる先生に教わって、実践を始めたのだ。

実際に生きている者同士の、ありふれた人間関係。

好きな人、信頼している人に、自信を持って勧められたからやってみた、という単純な話。

互いの信頼感と、まさに生きつつある者たちによる絶えざる修正によって、実践は保たれている。

 

僕らは、人の愛し方など教わっていない。

だが、実際に生きることによって、おのずから人を愛し、まさにそのことによって愛を学ぶ。

 僕らは気づいたら何かを好きになって、信頼している。

 

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ハタ・ヨガの動きが、信頼に足るものかなんて、いくら起源を探ってもある程度のところまでしか分からない(でも興味はあるので、僕なりに探ってみようとは思う)。

僕がやっているアーサナの大元である、クリシュナマチャリア(写真)がどんな人だったか、文献などで間接的に知ることはできるとはいえ、憶測の域を出ない。

 

だから、実際に会った人と、その関係の中で学ぶしかない。

僕が、なぜ、あなたにこのアーサナをおススメするかというと、

あなたがここに来てくれて、僕と出会ってくれたから、としか言いようがない。

僕だって、たまたま先生たちに出会わなかったら、これを知らなかった。

解剖学的に万人向けの動きだとしても、僕らが出会うという奇跡がなければ、これを伝えることはできなかった。

そして、これを受け取って、信頼してくれるかどうかも、また僕の力ではどうしようもないことだ。

 

人が、ある習慣を継続できるかどうかは、

単にその習慣からの直接的な効果の大きさだけでなく、

それを教えてくれた人への信頼、場の雰囲気の好み、(例えば「伝統」の継承者になることへの)誇り、などなど、

さまざまな付随的要素によって決められる。

 

 

そもそもの大前提として、「教えてくれる人に出会う」という要素もある。

出会うという時点で、人生の回転がその実践に導いているのかもしれない。

そして、人は、時に意志や努力なしに何かを愛し、信頼する。

ヨガのアーサナの一見人工的な動きも、この奇跡のような巡りの中にある。

僕は幸運にも、ハートオブヨガに出会えたし、それによってまた新たな出会いもある(そのことによって他の潜在的な可能性を消している、という半面も持ちながら)。

 

「ヨガに出会わないような人生もまた完璧なのに、あなたはなぜヨガをするのですか?」

ティーチャートレーニングで生徒にこんなことを聞かれたマーク・ウィットウェルは、次のように答えた。

「あなたに会うためです。」

 

ヨガの動きは、一人の身体上の合理性だけでは説明しきれない。