的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

完了する吐く息、志向する吸う息

母との会話を通して分かったこと。

 

「そのままでいい」は、「そのままでいろ」じゃない。

生きようとする欲動として、運動として、方向性として、「いま」が存在している。

 

だから、未来を志向することが、今のこれではなくあれになろうとすることが、

そのまま今の否定になるわけではない。

「こうなりたい」という志向性も含めて、持続としての今がある。

不動の瞬間の連続として時間があるのではなく、ただ持続があり、流れがあり、動きがある。

 

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苦しみとしての今が存在しているとする。

そこには、もっとこうなりたい、改善したいとの欲動が備わっている。

あるいは、そのような運動すら生じてこず、ただひたすら、「過ぎていく」ことを待つ、耐える、ということだけがあったりする。

じっとして、ただ流れていくのを待つしかない、その間はどうすることもできない、受苦の時間。(風邪を引いて寝込んだ日、そんなことを思った。)

 

いずれにせよ、いのちは生きようとする。

死よりは生へ、苦よりは快へ向かおうとする。

 

不機能さ、不快感、そのような状態が生まれてきてしまうような関係性、

しかし、そんな中でも生きてきたという歴史があり、その証として、ここで呼吸している身体がある。

いくら否定しようとも、無視しようとも、生きてきてしまった、という動かせない証拠としてここにある。

どこかでバランスをとり、どこかに迷惑をかけ、どこかを痛めつけながら。

 

認めるとか、受け入れるとか言う前に、突き付けられてしまう。

あれこれ言っても、僕はこのように存在している(存在してきた、過去の半分?)。

吐く息で、ハーーッ、お疲れさま、よく生きてきた。

 

そして、この生は、さらに欲動をはらんで存在している。

それが、「未来の半分」として今ここにある。

吸い入れるこの呼吸は、意志せずともこれからも生きさせられる、未来へのひと押し、スイッチオン、だ。

 

どこに向かっているのか、何に動かされているのか、

ちっぽけな僕らの意識では推し量れない。

いのちの望むままに、、

 

現状を受容することと、もっとこうしたい、との欲動に従うこと。

相反するようで、反さない。

もっとも、こう「したい」の主体は、日常的な意味での「わたし」ではない。

いのちがいのちする、わたしの身心を通して。

 

(どういう訳かわからないけれど、)

わたしは今まで生きてきた。

そして、これからも生きてゆく。

 

吐く息の完了形と、

吸う息の志向性は、

端的にこのことを教えてくれる。