完了する吐く息、志向する吸う息
母との会話を通して分かったこと。
「そのままでいい」は、「そのままでいろ」じゃない。
生きようとする欲動として、運動として、方向性として、「いま」が存在している。
だから、未来を志向することが、今のこれではなくあれになろうとすることが、
そのまま今の否定になるわけではない。
「こうなりたい」という志向性も含めて、持続としての今がある。
不動の瞬間の連続として時間があるのではなく、ただ持続があり、流れがあり、動きがある。
苦しみとしての今が存在しているとする。
そこには、もっとこうなりたい、改善したいとの欲動が備わっている。
あるいは、そのような運動すら生じてこず、ただひたすら、「過ぎていく」ことを待つ、耐える、ということだけがあったりする。
じっとして、ただ流れていくのを待つしかない、その間はどうすることもできない、受苦の時間。(風邪を引いて寝込んだ日、そんなことを思った。)
いずれにせよ、いのちは生きようとする。
死よりは生へ、苦よりは快へ向かおうとする。
不機能さ、不快感、そのような状態が生まれてきてしまうような関係性、
しかし、そんな中でも生きてきたという歴史があり、その証として、ここで呼吸している身体がある。
いくら否定しようとも、無視しようとも、生きてきてしまった、という動かせない証拠としてここにある。
どこかでバランスをとり、どこかに迷惑をかけ、どこかを痛めつけながら。
認めるとか、受け入れるとか言う前に、突き付けられてしまう。
あれこれ言っても、僕はこのように存在している(存在してきた、過去の半分?)。
吐く息で、ハーーッ、お疲れさま、よく生きてきた。
そして、この生は、さらに欲動をはらんで存在している。
それが、「未来の半分」として今ここにある。
吸い入れるこの呼吸は、意志せずともこれからも生きさせられる、未来へのひと押し、スイッチオン、だ。
どこに向かっているのか、何に動かされているのか、
ちっぽけな僕らの意識では推し量れない。
いのちの望むままに、、
現状を受容することと、もっとこうしたい、との欲動に従うこと。
相反するようで、反さない。
もっとも、こう「したい」の主体は、日常的な意味での「わたし」ではない。
いのちがいのちする、わたしの身心を通して。
(どういう訳かわからないけれど、)
わたしは今まで生きてきた。
そして、これからも生きてゆく。
吐く息の完了形と、
吸う息の志向性は、
端的にこのことを教えてくれる。