的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

何を願うのか

自分がすこやかでいたい。

家族がすこやかでいてほしい。

できれば、みんなが、全人類が、全生命が、すこやかでいてほしい。

 

そこにおいて、使えるものは使えばいい。

回りくどいよりは、すみやかなやり方がいいだろう。

複雑なよりは、たやすい方がいいだろう。

時には、道具の力を借りたり、権力に頼ったり、なんてこともあるかもしれない。

 

その時のその人に合ったやり方というのはあるし、

でもみんな「いのち」なんだから根本的には一緒だろう、という見方もある。

 

あるやり方で少し晴れた人が、他の人にお節介を焼きたくなることもあるだろう。

それを「ありがとう」と受け取る人もいるし、「私は私だから放っておいて!」という人もいる。

 

さて、僕はどうなりたいのだろうか。

 

Twitterでこんな言葉に出会った。

 

何者かになるためにではなく、決して何者にもならないために学ぶ。

 

いろんなところに「私」が宿る。

必死になって目の前の人の話を聴いているとき、「私」と「あなた」がいるんじゃなくて、その関係性こそがすべて「私」だったりする。

そんな時、ふだん思い込み、これが自分だと定義しているさまざまな性格、個性、肩書などは、気づかないうちに外れていたりする。

 

そうかと思えば、目の前で必死に話している人がいるのに、

「私」の方は全く隔離されて、断絶したところに留まっている時もある。

しょうもない自意識が出てきて、何かを守ろうとしたりする。

「私」を何者かに定義して、名付けて、そこに閉じ込める。

 

「いのち」は別に、(皮膚で覆われたこの)カラダだけに宿っているわけじゃない。

いろんなところに出張して、自由に動き回る。

宿った場所で、その都度、晴れやかに咲いていたい。

すこやかなBodyがあったとしても、それだけで晴れやかに咲けるわけじゃない。

皮膚に閉じ込められたひとりぼっちですこやかでも、そんなに楽しくない。

 

「私」は自由に飛びます。いろんなところに止まります。

その時、何ができるか?

 

過去に学んだあの言葉を、今朝出会ったあの体験を、わざわざ持ち出さなくてもいい。

見つめてみる。

何かしゃべってみる。

だまる。

おどる。

息をする。

 

そうやってたら、そのうちお腹がすく。

ちょっと我慢する。

仕方なく、動く。

自然が、だれかが、恵んでくれる。

ありがとうー!

僕もみんなのために、ちょっと頑張ってみるよ。

 

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この春から休学して、「何者でもなさ」を、少しだけやりやすくなります。