何を願うのか
自分がすこやかでいたい。
家族がすこやかでいてほしい。
できれば、みんなが、全人類が、全生命が、すこやかでいてほしい。
そこにおいて、使えるものは使えばいい。
回りくどいよりは、すみやかなやり方がいいだろう。
複雑なよりは、たやすい方がいいだろう。
時には、道具の力を借りたり、権力に頼ったり、なんてこともあるかもしれない。
その時のその人に合ったやり方というのはあるし、
でもみんな「いのち」なんだから根本的には一緒だろう、という見方もある。
あるやり方で少し晴れた人が、他の人にお節介を焼きたくなることもあるだろう。
それを「ありがとう」と受け取る人もいるし、「私は私だから放っておいて!」という人もいる。
さて、僕はどうなりたいのだろうか。
Twitterでこんな言葉に出会った。
何者かになるためにではなく、決して何者にもならないために学ぶ。
いろんなところに「私」が宿る。
必死になって目の前の人の話を聴いているとき、「私」と「あなた」がいるんじゃなくて、その関係性こそがすべて「私」だったりする。
そんな時、ふだん思い込み、これが自分だと定義しているさまざまな性格、個性、肩書などは、気づかないうちに外れていたりする。
そうかと思えば、目の前で必死に話している人がいるのに、
「私」の方は全く隔離されて、断絶したところに留まっている時もある。
しょうもない自意識が出てきて、何かを守ろうとしたりする。
「私」を何者かに定義して、名付けて、そこに閉じ込める。
「いのち」は別に、(皮膚で覆われたこの)カラダだけに宿っているわけじゃない。
いろんなところに出張して、自由に動き回る。
宿った場所で、その都度、晴れやかに咲いていたい。
すこやかなBodyがあったとしても、それだけで晴れやかに咲けるわけじゃない。
皮膚に閉じ込められたひとりぼっちですこやかでも、そんなに楽しくない。
「私」は自由に飛びます。いろんなところに止まります。
その時、何ができるか?
過去に学んだあの言葉を、今朝出会ったあの体験を、わざわざ持ち出さなくてもいい。
見つめてみる。
何かしゃべってみる。
だまる。
おどる。
息をする。
そうやってたら、そのうちお腹がすく。
ちょっと我慢する。
仕方なく、動く。
自然が、だれかが、恵んでくれる。
ありがとうー!
僕もみんなのために、ちょっと頑張ってみるよ。
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この春から休学して、「何者でもなさ」を、少しだけやりやすくなります。