的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

注意と散漫 ヨーガ・スートラをめぐって

 僕らのマインドは、集中したり、散漫だったりする(集中、としたけれど、中に集めるのではなく、対象に注意を向ける、というイメージ)。

何かに集中しているのであれば、その対象を手掛かりにして、世界との関係を取り結ぶことができる。

この状態は、他の角度から見れば、主体も客体もなく、ただ「集中する attention」ということが起きている、ともいえる。

主体、客体の区別など、人間的視点からの便宜的な区分けにすぎず、実在していない、とすら言えるから。

だから、何かの対象に集中する、という活動が起こった瞬間、即サマーディ(三昧)、とすら言えそうだ(対象となるのは、実際にあるものでも、概念でも、記憶でも、神でも)。

 

では、「散漫」とは何か。

心があっちこっちに散った状態。

ここで、キーになるのが、「持続」だ。

考えてみると、「あっちこっち」に散っているとはいえ、一度にひとつしかとらえられないはずだ。だから、「集中」の状態が、次々と異なる対象に移り変わっていく状態が、「散漫」だ(したがって、本当の意味で、サマーディから離れてしまうことなどない?)。

集中は常に起こっている。違いは持続があるかないかだ。

(あと、「睡眠」とはどういう状態なのか、このふたつの区分けではよくわからない)

 

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では、どのくらい「持続」させればよいのか。

4秒くらい?

 

個人的な見解では、僕らのマインドが、その持続を感知し、物理次元で何かを成し得るほどの間、というイメージだ。

ほんの一瞬だったら、その効果はこの物理次元には現れてこない。

次々と対象を変えてしまっていたら、僕らのマインドがそれを把握する前に、対象との結びつきは失われてしまう。

 

マインドは、実にいろんなものを使って、僕らが注意を向けた対象を把握しようとする。

言葉で名付けて、空間上に位置づけて、時間軸の上に位置づけて・・・

騒がしくも有能な僕らのマインドを納得させてあげるためには、それらの作業が終わるまで待ってあげるしかない。

マインドの諸々の作業は、純粋な知覚を妨げるから消してしまうべきものなのではなく、「注意を向ける(ダーラナ)」という作用に参与し、それを助けるものなのだ。

 

だって、僕らが「持続」とか言ってられるのも、対象を言葉によって名付け、それを空間的に区切り、時間的に同一のものとして持続するという、マインドの作用あってこそなのだから。

 

だから、マインドを敵視するのではなく、

僕らがほんとうに観たい(体験したい)ためのもののために、

一緒に参加させてあげましょうよ。

それが、サマーディを「味わう」ということなのだから。

その過程で、マインドさんが「嬉しい」とか「悲しい」とか叫んで、

そしてその叫びも消えていくのだから。