生命のヨガ 途切れることのない流れ
僕らがふだん意識していなくても、そこにマインドを向けてやらなくても、
生命はある。血が流れている。心臓が脈を打っている。呼吸が出たり入ったりしている。
それらは、本質的に、nurtiring / caring process (生命を養い、癒すプロセス)である。
たとえ僕らの意識のレベルで、「痛い」とか「体調が悪い」と感じていても、それもこのプロセスの一部であり、生命の十全さの一部である。
元からある生命の神秘を、あるがままに、全うさせてやりたい(いつか死ぬのだから、病や老いを完全に克服することはできない。僕らにできるのは、限りあるその生命を可能な限り輝かせてやることだけだ)。
そのために何ができるかというと、その生命の神秘に参与していくことだ。
どういうことかというと、「マインドを向ける」ことに他ならない。
僕らができること=意識的に努力し得ることとは、
どこまでもマインドの次元でしかない。
生命の神秘の中で、僕らが参与しうるもの(多少意識的に調整しうるもの)とは、呼吸だ。
吸って、吐く。
吸う息で生じる心地よさ、世界から受け取る。
吐く息で生じる力強さ、世界に与える。
僕らが何もしなくてもすでに存在しているそのプロセスに、マインドも加わり、それらの輝きが増すようにカラダの形もちょっと調整する。
ヨガにおける意識的な努力とは、このようにして可能になる。
決して苦しい姿勢をとって、そこでゼイゼイ息をすることではない。
もとから機能していたその呼吸を、邪魔しないように、可能ならより横溢させられるように、そこに加わっていき、カラダを変形させていく。
カラダの隅々まで呼吸を行き渡らせ、生命の健全さを、さらに加速してやる。
さまざまなポーズをとった後は、カラダの動きを止め、落ち着いた姿勢の中で呼吸に集中する。全身が加担した後の呼吸は、より深く、力強く、包容力のあるものになっているはずだ。その呼吸に、マインドを向けてやる。
最後に、呼吸に向けていたマインドも手放し、ただただそこに坐る。
当然、この後は雑多な対象にマインドを引っ張られまくる、愛すべき日常に戻っていくのだが、全身の動きとマインドが加担し、より洗練された呼吸といのちがそこにある。
その神秘とともに、僕らは日常に戻ってゆく。
アーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想、そして日常生活。
途切れることのないこの流れで、生命は全うされ、輝く。
まだ納得していない問いとしては、
・生命にとって「死」とは何か。
・生命を輝かせる、全うさせる、とは何か。これ自体分析するようなものではなく、ただそう感じるだけのもののような気もするが。