僕らのからだから生まれる道徳について
ものすごく「不道徳」だと言われるような立場も想定して、道徳を考える必要がある。
例えば、「人間の死を悲しく思わない」という人がいたっていい。
人間が、人間や動物の死(特に目の前で起こる)に対して「悲しい」という感情を持つのは、
たんに人間的な身体が、それを「悲しい」と知覚するからに他ならないのではないか。
細胞ひとつひとつの死を悲しみ、逆にそれらの生成を歓ぶような存在がいてもおかしくない。
それは、道徳的に優劣があるわけではなく、視点が違うだけだ。
あくまで人間は、「人間的身体」の制約のもと、「道徳的だ」とかそうじゃないとか言っている。
ただし、以上のような想定が可能だとしても、僕ら人間はそうたやすく「人間的身体」を離れることはできない。
こうしている今も、僕は「人間する」することを仕向けられ、そうするしかない存在なのだ。
目の前で人間や動物が死ぬのを、僕は見たくないし、それを「イヤ」だと思うようにできているカラダからも、脱却できる気はしない。