体和日記 Tai-wa-nikki

茨城県つくばを拠点に、体和塾(カラダを和ませ、カラダで世界と和する塾)という活動をしています。ハートオブヨガ、甲野式身体術、哲学などから考えたこと、感じたことを、赴くままに。

愛しい空っぽと色たちを

僕らはふだん、自分や他人によって着色されたストーリーを生きている。

言葉やイメージによって打ち立てられたストーリーを、遂行し、再現前化させることで生きている。

 

例えば、人生計画を立て、それが「より聴こえのよいもの」になるよう努力したり、

理想の性格、人格を目指して自分を高めようとしたり。

「こんな風になりたい」、「ああするべきだ」・・

 

そんなストーリーが、時に崩壊する。

描いていた理想が崩れたとき、自分の立脚していたことのおかしさに気づいたとき、その無意味さを突き付けられたとき・・・

 

そんなときふと、すでにあるものに気がつく。

何かを追い求めなくとも、すでにそこにあるものがある。

 

僕らは、自覚のないまま、世界に産み落とされた。

僕らが意識しようとしまいと、そこに生命があり、世界と交流し、その生命が宿る場としてカラダが存在している。

 

ある人は、このことを「奇跡」とか「神秘」と形容する。

たしかに、ふしぎだ。

 

「無くした後に残された 愛しい空っぽを抱きしめて

借り物の力で構わない そこに確かな鼓動があるなら」

BUMP OF CHICKEN 「HAPPY」の歌詞より)

 

 

カラダがあります、呼吸してます、生きてます・・・

こんな当たり前で奇跡的なことを、全身で味わうということ。

僕が毎朝のヨガでやっているのは、こんなことかもしれない。

 

とはいえ、存在しているという事実、そのことの経験自体は、幸せでも不幸でもない。

存在の方は坦々と、ただある。

 

そう、だから「空っぽ」が愛しいかどうかは分からないのだ。

ある時は解放であり、至福のベッドであり、安堵である。

しかし、同時に虚無であり、とてつもない退屈さでもある。

そして、それらのどれでもない(言語で語った瞬間、それは「空っぽ」ではなくなる)。

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さて、ストーリーを失い、その断絶のさなかで空っぽの愛しさに気づいたとしても、ストーリーはまた続く。

自分にとってひとつの大きな物語が完結したり頓挫したりしても、一方で否応なく続いているものがある。

 

明日起きれば、またやることがあるし、それをないことにして生きていくことはできない。

そろそろ、そっちを考えることにしよう。

 

 

(追記)

ちょっとここのところ、「空」に漂う時間が長すぎた。

ブログの更新が滞っていたのも、「書く」、「考える」という作業をする気になれなかったからかもしれない。

そろそろ、「色」や「ストーリー」の方に戻ってくるべきときかもしれない。

「空っぽ」だけじゃなくて、「色」だって愛しいし、抱きしめるべきものなのだ。