体和日記 Tai-wa-nikki

茨城県つくばを拠点に、体和塾(カラダを和ませ、カラダで世界と和する塾)という活動をしています。ハートオブヨガ、甲野式身体術、哲学などから考えたこと、感じたことを、赴くままに。

実感なき凡庸な幸福

「幸せになる勇気」。

 

僕なりに言い換えると、「凡庸である勇気」となる。

 

何か優れたことをしないと、「よい」人生だと思えないような心。

どういうわけか、ほとんどの人に備わってしまっている。

 

幸せになるために必要なことは、この強迫観念から抜け出すことに尽きるのでは?

最近僕はそう思う。

 

確かに、何か優れたことを成し遂げようと、文字通り身を粉にして努力し、達成したとき。

この達成感は、たしかに格別だ。

(しかし、この「優れた」というのは、誰が決めたことなのだろう?)

ありありと感じられる、「実感のある幸福感」と呼びたくなる。

 

しかし、この「実感のある幸福感」を、僕らは過剰に要請しすぎかもしれない。

言い換えれば、僕らの意識が、常に「喜びたがり」、「幸せを噛みしめたが」っている。

 

この状態は、力を出そうとして思い切り力んでしまう筋肉に似ている。この過剰さは、苦しいし、ケガを引き起こすかもしれない。

ありありと筋肉の力感が感じられる、「実感のある力」は、実は拍子抜けするほど弱かったりする。

 

僕が今まで出会って来た武術の達人たちは、何の変哲もなく、ひょいとやった動きでとんでもない力を出す(イメージが湧かない人は、「火事場の馬鹿力」というものを想像してみてほしい)。

 

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「実感なき力」は、驚くほど強く、しかもそれ特有の爽快感、幸福感も付随している。

 

僕は、この幸福感に注目したい。

意識で噛みしめられるような強い幸福感ではなく、ありふれた、凡庸な、実感のない幸福感。

 

それは、普段は肌の表面をなでて通り抜けてしまうような、ある種の注意を払っていないと全くとらえられないような、しかも掴みにいこうとすると消えてしまうような、そんな幸福感だ。

 

あえて言うなら、呼吸が起きている、心臓が動いている、身体がある、といったような、ありふれた事実を改めて見つめ直すことでふと訪れるような幸福感である。(今か今か、と幸福感を待ちわびていると、たぶんなかなか訪れない。)

 

この幸福を味わうにあたって、何かが欠けている人は一人もいない。

生きていて、生命がそこにあるなら、いつでもあるものだからだ。

 

 

このありふれた幸福感が失われるとしたら、それは自分ではない何か他のものになろうとする瞬間だ。

達成感のような強い「実感のある幸福感」を追い求めてしまう時だ。

この「ありありとした実感」を求めたがる癖は、一種の麻薬のようなものだ。

 

ちなみに、ありありとした実感を求めながら、何かを達成することが難しいと感じた人がどうなるかと言うと、「痛み」という形でありありとしたものを感じようとすることに転化しがちだ。

 

なんにもないように思えるより、むしろ「痛み」としてありありと存在していた方が安心するんだろう。

我痛む、故に我あり?

 

だから、僕らが「自分をさらけ出す」という時は、痛みや傷を語りたがる。何にもないより、そっちの方がいいような気がしてきてしまう。(ポジティブなことをさらけ出すと、「自慢かよ」となってしまうし)

 

最近僕が興味を持っている、UG.クリシュナムルティという人は、こんなことを言っている。

 

もしあなたが何も問題を抱えていなかったら、あなたは問題を創り出すだろう。一つも問題がないと、生きている感じがしないからだ。

 

If you don’t have a problem, you create one. If you don’t have a problem, you don’t feel that you are living.

 

"Truth_There is no such thing as truth"

 

 

何かを達成しようとする生き方をしている限り、このサイクルにはまりがちだ。

 

 

問題がひとつもない生に対して「生きている感じがしない」と感じるのではなく、そこにおいて味わえる凡庸な幸福を大切にしたい。

そう思える勇気さえあれば、実際のところ、問題は減っていくはずなのだから。