実感のないここちよさ
何か優れたことを成し遂げようと、文字通り身を粉にして努力し、達成したとき。
この達成感は、たしかに格別だ。
(しかし、この「優れた」というのは、誰が決めたことなのだろう?)
ありありと感じられるようなものを、どうしても求めたがってしまう、僕らの性質とは何なのだろう?
しかし、この「ありありとした実感」を、僕らは過剰に要請しすぎかもしれない。
言い換えれば、僕らの意識が、常に「喜びたがり」、「幸せを噛みしめたが」っている。
この状態は、力を出そうとして思い切り力んでしまう筋肉に似ている。この過剰さは、苦しいし、ケガを引き起こすかもしれない。
ありありと筋肉の力感が感じられる、「実感のある力」は、実は拍子抜けするほど弱かったりする。
武術の達人たちは、何の変哲もなく、ひょいとやった動きでとんでもない力を出す(イメージが湧かない人は、「火事場の馬鹿力」というものを想像してみてほしい)。
「実感なき力」は、驚くほど強く、しかもそれ特有の爽快感も付随している。
僕は、この爽快感に注目したい。
意識で噛みしめられるような強い実感ではなく、ありふれた、凡庸な、実感のなさ。
それは、普段は肌の表面をなでて通り抜けてしまうような、ある種の注意を払っていないと全くとらえられないような、しかも掴みにいこうとすると消えてしまうような、そんな性質だ。
下手をすると、強い実感がないと「生きている気がしない」ということにもなりかねない。それは、単にアタマが強欲なだけだ。
ちょっと全身で「感じる」モードになってみると、かすかに感じられる爽快感がある。
意外と、これこそ幸せでないか?
なんて思うのだ。