的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

実感のないここちよさ

 

何か優れたことを成し遂げようと、文字通り身を粉にして努力し、達成したとき。

この達成感は、たしかに格別だ。

(しかし、この「優れた」というのは、誰が決めたことなのだろう?)

ありありと感じられるようなものを、どうしても求めたがってしまう、僕らの性質とは何なのだろう?

 

しかし、この「ありありとした実感」を、僕らは過剰に要請しすぎかもしれない。

言い換えれば、僕らの意識が、常に「喜びたがり」、「幸せを噛みしめたが」っている。

 

この状態は、力を出そうとして思い切り力んでしまう筋肉に似ている。この過剰さは、苦しいし、ケガを引き起こすかもしれない。

ありありと筋肉の力感が感じられる、「実感のある力」は、実は拍子抜けするほど弱かったりする。

 

武術の達人たちは、何の変哲もなく、ひょいとやった動きでとんでもない力を出す(イメージが湧かない人は、「火事場の馬鹿力」というものを想像してみてほしい)。

 

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「実感なき力」は、驚くほど強く、しかもそれ特有の爽快感も付随している。

 

僕は、この爽快感に注目したい。

意識で噛みしめられるような強い実感ではなく、ありふれた、凡庸な、実感のなさ。

 

それは、普段は肌の表面をなでて通り抜けてしまうような、ある種の注意を払っていないと全くとらえられないような、しかも掴みにいこうとすると消えてしまうような、そんな性質だ。

 

 

 

下手をすると、強い実感がないと「生きている気がしない」ということにもなりかねない。それは、単にアタマが強欲なだけだ。

 

ちょっと全身で「感じる」モードになってみると、かすかに感じられる爽快感がある。

意外と、これこそ幸せでないか?

なんて思うのだ。