体和日記 Tai-wa-nikki

茨城県つくばを拠点に、体和塾(カラダを和ませ、カラダで世界と和する塾)という活動をしています。ハートオブヨガ、甲野式身体術、哲学などから考えたこと、感じたことを、赴くままに。

境界としてのヨガマットの機能

 

現代にヨガをする人にとって、欠かせないアイテムとなりつつあるヨガマット。

 

しかし、それが一般的になったのは、いつ頃なんだろう。

 

伝統的なインドの行者たちが僕らのようなゴム製のマットを使っているとは考えにくい・・

 

いろいろ調べたけど、正確な時期は特定できなかった。

 

おそらく、起源としては、多彩なポーズをとる際に、足が滑りにくい、座ったとき、寝そべったときに気持ちいい、などの役割があったんだろう。

 

それに加えて、意図的かどうかに関わらず、以下のような機能も付加されているようにも思える。

 

ヨガとそうでないものの境界

社会生活を送りながらヨガをする多くの現代人にとって、ヨガマットは、「ヨガとそうでないものの境界」として機能している。

 

ちょっと大げさにいうと、ヨガマットの上は、「聖なる空間」。

ヨガマットを広げ、その上に乗った瞬間、普段の雑多な世間からいったん離れる。

「マットの上の私=ヨガモード」いう人も多いんじゃないか。

 

自然と一体化しようとする営みであるヨガにおいて、人工物であるヨガマットが介入していることは不純と言えば不純だ。

できれば、まるっきり人工物ではなく、土に還るような環境にやさしい素材を使ったマットを使いたい。

(つい最近、ふたりの方からこのことを指摘された。恥ずかしながら、僕自身がマットを購入した際は、このことを考えられていなかった。)

 

とは言え、人工物であることのメリットもある。

 

ヨガマットは、人工物であるがゆえに、(少なくともマクロの視点では、)昨日も今日も明日も、変わらずにそこに存在していてくれる。

一方で日常を生きる「私」は、一時たりとも同じではない、自然物。

時には、マットに立つ際に、気持ちがすさんでいることもある。

 

そんな時に、いつも変わらずに存在してくれているマットのおかげで、いつもと同じ場所に還ってくるような気分になる。

アリストテレスの言葉を使うなら、「不動の動者」。いつも変わらず、僕を導いてくれる存在。

 

ちなみに僕のマットには、ハートオブヨガのシニアティーチャーであるJ先生のサインとメッセージが書いてある。マットに立つたび、新鮮に、ヨガの力を思い出させてくれる、貴重なリマインダーとして僕は利用している。

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 自己と他者の境界

「境界線」としての役割は、「私」と「私でない人」の間にも働いている。

 

このことが特に顕著なのが、大人数でのヨガクラス。

 

花見でシートを敷き、自分の場所を確保するように、ヨガのクラスでも、マットを敷いて「自分の居場所」を確保しようとする。

 

この「境界」を、自分ではそんなに意識していなくても、他人が敷いたマット(=他人の居場所)に立ち入るのは、気が引けるはず。

 

無意識的に、ヨガのクラスの空間に、いくつも境界線が引かれていく。

 

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もしかしたら、ヨガマットの色やデザインによって、「個性」を発揮しようとする人もいるかもしれない。それもひとつの機能だ。 

 

達成され得ないOneness

 

ところで、もともとヨガは「結合」を意味する単語だ。

 

ヨガの目的には、「ヨガとそうでない(と思っている)もの」の結合、「自己と他者」の結合も含まれているはずだ。

 

ならば、究極的には、無意識のうちに引いているあらゆる境界を取り去りたい。

 

結合、Union、Oneness・・・

 

これらの言葉を用いて表現される世界観が、真に現実のものとなるならば、それはヨガマットがいらなくなった時、とすら言えるかもしれない。

 

「今はヨガの時間」、「今はヨガじゃない時間」。

「ここは私の場所」、「そこはあの人の場所」。

 

そんな区別が問題にならないくらい、「ヨガ」が実践できたらいいんだけど、なかなかそうもいかない。

 

現実問題として、これらの区別を設けないと、実践が進まない。

 

とは言え、ヨガマットを使うという手段、もっと言うならあらゆるポーズや呼吸法のテクニックなど、、

これらに頼っているかぎりは、常に境界線を引き続けている行為になる。

 

だから、手放しでは喜べないんだよね。

いつかは捨てる、補助輪をつけながら走っているような感じ。

 

ウィトゲンシュタインはこう言った。

 

登り切ったハシゴは、投げ捨てなければいけない。

 

ヨガマットも、ポーズも、呼吸法も、すべて投げ捨ててしまえる日が、僕に来るだろうか。

来たら来たでよし。

来なくても、諸々の手段に頼る中で、常にその手段から離れようとする運動のなかで、そこにヨガが生じている。