『なぜ母親は、子どもにとって最高の治療家になれるのか?』
母親のような強い気持ちと、それを可能にする技術
ケガをした子どもに、母親がそっと手を当てる。無意識的に行うその行為にこそ、どんな治療技術にもまさる力があるのかもしれない。
我が子の身体の奥深いところにあるその“治る力”を信じ、<手当て>ひとつでその力を引き出すことができる「我が子を思う母親」というのは、(中略)いつの時代も変わらぬ「最高の治療家」なのです。
(「はじめに」より)
このことを、プロの治療家として何人もの治療に携わってきた著者が言うのだから、説得力がある。
「治したい!」という母親のような強い気持ちと、それを可能にする治療技術。どちらが欠けても治療は成り立たないが、どちらがより不可欠かというと、前者だろう。
まず「治したい!」という気持ちがあり、それから手段としての技術があるのであり、治療技術が先にあるのではない。
とは言え、著者は決して技術をないがしろにしているわけではない。筆者はあらゆる研究分野を柔軟に取り入れ、最先端の治療技術を追求しており、本書でも具体的な治療技術の手引きは紹介されている。
でも、極論「治るならなんでもいい!」のだ。
ある方法を忠実になぞることは、それ自体には意味はない。
治療技術や健康法に限らず、あらゆる方法論で溢れる現代は、このことが忘れられがちだ。
方法論が具体化し、詳細になるほど、それをやること自体が目的化してしまう。
最もシンプルなものこそ効果がある
本書の最後で紹介される方法は、「手当て」という極めてシンプルなものである。
このシンプルさならば、誰もが実践に移せる。あるいは、もうすでに実践している。(頭痛のときに頭に手を当てたことがあるなら、すでに実践者だ。)
方法論は、実際に行われてこそ意義がある。
そういった意味で、シンプルであるということはひとつの力だ。
シンプルであればこそ、多くの人によって実践され、効果を挙げることができる。
手当てが教えてくれること
というわけで、この本を読んだ僕も、手当てによるセルフケアを始めてみた。
寝る前に、数分間自分のお腹に手を当て、呼吸を繰り返す。
やってみて感じるのは、手を当てることそれ自体より、自分の身体を労わる時間をつくることそのものに価値があるんじゃないか、ということだ。
もちろん、手を当てることによる効果も感じている。
でも、それより自分の身体に耳を澄ませ、敏感になるための時間を確保すること。
そうすることで、自分の身体が発するシグナルに敏感になることができる。
セルフ手当ては、それ自体にも治癒効果がありそうだが、それに加えて自分の身体との親密さを増し、自分の身体が求めているものに敏感になれるという効果もあると思われる。自分の身体の声がより聴けるようになれば、錯綜する方法論に惑わされることなく、自分にとってよい選択をすることができそうだ。
治療家による思索、誰でもできる手当て法など、気になった方はぜひ手に取ってみてください。