的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

「成長モデル」の落とし穴

  1. できない
  2. 意識しながら、ゆっくりとならできる
  3. 意識しなくてもできる

 

運動技能を習得する際の成長モデルとして、一般的に用いられる図式を持ち出してみた。僕の記憶では、高校の頃の保健体育の教科書にも登場した気がする。



例えば、サッカーのパスを練習する際には、足の角度は味方と水平に、味方の位置を見て、次にボールを見る、といった具合にポイントを意識しながら練習する(させられる)。高校時代、僕は「サッカーの基本」ともいえるこれらの要素を常に「意識しながら」練習することが大切なのだと教え込まれてきた。

 

もちろん、新しい運動を習得していく際に、意識的にポイントをおさえて繰り返し練習することは重要だ。そのことでカラダが動きを覚え、自動化していく。このプロセスを踏んでいくこと自体は納得。

 

 

しかし、どうなのか?

疑問① 意識的に練習するということは、ある程度の段階までは有効であるものの、ある段階を超えてからはむしろ邪魔になるのでは?ということ。

疑問② 何か新しいことを習得する際にも、意識していてはダメなことがある。言い換えれば、意識していては決してできず、ふと意識が外れた瞬間にできるようになる、という領域が存在するということ。

 

意識「し過ぎない」練習

僕の高校時代のある日、サッカーの練習中に接触プレーで軽い鼻血が出たことがあった。この時は練習を止められる雰囲気ではなかったので、手で血を抑えながらなんとかプレーを続けた。ところが、この時のプレーが、自分でも驚くほど冴えていた!

 

f:id:yutoj90esp:20170404142053j:plain

 この時は鼻血を止めることで必死だったので、前述した足の角度などはもちろん、その練習内容もほとんど意識できていなかった。鼻血に8割くらいの意識を配りながら、頭の片隅でなんとかプレーについていっていた状態だった。

 

この時の僕は、ほとんど「意識していない」状態だった。これは「基本」を蔑ろにしていることなのか?

否、ほとんど意識に上らない状態のまま、僕はいつになく完璧に「サッカーの基本」をこなせてしまっていたのだ。

 

重要であることと、意識的にやらなければならないことは必ずしも一致しない。むしろ、意識的にやることでその精度が落ちたり、逆に意識しないことでおのずと正確になったりすることがある。このことは、抜きがたい実感として僕の中に残った。

 

このことに関しては思い当たるところがある人は多いんじゃないか。何気なくできていたことが、意識し出した途端急にできなくなる。そんなときにすべきことは、「基本を意識し直すこと」ではなく、はじめの「何気なさに」戻ることなのかもしれない(こう言うと基本を軽視しているように思われるかもしれないけれど、そうではなく、大事だからこそ、意識の支配下に置かずに「何気なさ」に任せるべきではないか?ということ)。



 まったくの散漫であることも問題ですが、生真面目な人の場合多くは「意識しすぎ」の方が問題になっている。「意識する」という練習はさかんに行われるのに、「意識しすぎない」という練習はどういうわけかほとんど行われていない。ここに、運動技能を高める教育をする際に見直すべきポイントがあるのかもしれない(運動技能のみに留まる話じゃないかも)。

 

素人の怖い物知らず

疑問②に関して。

無意識にできるのはある程度練習を重ねた人だから可能なのであって、初めて行う運動は、やはりポイントを意識して行わなければうまくできないはず、と。

確かにそうだけど、こんな例外もある(そしてこの例外は、意外と無視できないほど大きいのではないか)。

 

「素人の怖いもの知らず」という言葉がある。まったくの初心者が、その運動の難しさを知らないがゆえに、簡単だと思って行い、本当にできてしまう現象を指す。いや、実際には簡単だとすら思っていない。行う運動に対して、「簡単そう・難しそう」といった予測や、「うまくやってやろう」といった恣意がまったくはたらいていないからこそ、できてしまうのだ。

 

なんとなく行うからこそ入れるこの状態は、ポイントを意識したりした時点で絶対に入れない。「意識しろ」の弊害、ともいうべきこと。



僕が高校時代に抱いた、このふたつの違和感。

冒頭の「成長モデル」みたいなものの背景にあるのは、異常なまでの意識への信頼感と、カラダへの不信感、といえるかもしれない。

 

「意識する」をあまりにも重視しすぎることは、意識の支配下にカラダを置かないと信用できない、と言っているようなものだ。「もうちょっとカラダのこと信用してあげなよ」と言いたくなる。