有難みに気づくということ。
失ってからでは…
有り難さは、それを失ったときに初めて気づく。
何かにつけ、よく言われる言葉だ。
「在る(有る)」ことが当たり前だと思っているときは、それがどんなに尊いことか、なかなか気づかない。
「有り難い」という漢字が、まさにそのことを表しているよね。
でも、失ってからでは気づけないものもある…
失ってからその有難みに気づこうとしても、時すでに遅し、というものもある。
3月に受講したハートオブヨガ指導者養成講座にて、マーク・ウィットウェル、J.ブラウン両先生が言い続けたこと。
You are the extreme intelligence of life.
あなたは生命のこの上ない英知である。
マークとは、スカイプでの会話。
あなたは今そのままで、完璧で、奇跡である。
マークとJは、どの人を前にしても、そう繰り返した。
正直、人によっては受け入れがたい言葉だと思う。
僕も、完全に腑に落ちたとは言いがたい。
でも、こんな風に考えてみるとどうだろう?
呼吸をする。心臓が鼓動を打つ。血が流れている。
何より、この世界が存在していて、その中に僕が存在していること。
残念ながら、それらはその性質からして、失ったときには気づけない。
だから、今まさに、ここで起きていることに気づくことこそ、その有難みを感じることだったりするのだ。
たかが「気づく」だけど、よく考えれば僕たちが「幸せ」と呼ぶことの多くは、「気づく」ことから生まれている。
「気づく」ための営み
とは言え、そんなお説教は聞きたくない、という人も多いだろう。
ハートオブヨガが出す結論はシンプルだ。
言葉は聴かなくてもいいから、練習してみなさい。
呼吸をして、その呼吸とともに動く。
その心地よさがカラダに残るだけでいい。
あえて言えば、生命として存在している自分に、今まさにここで気づく。
そんな営みが、ヨガの中で起きている。(自覚するときもあり、しないときもある。)
もちろん、僕らが気づかなくとも、そこに生命はあり、マーク流に言えば、「生命のこの上ない英知」として存在している。
でも、それに「気づく」か否か。
小さなことのようだけど、実はそのことで、幸せが大きく左右されるのではないか。
それに「気づく」ための営みが、別にヨガである必要はないと思う。
僕は、好きでやっているのであり、それ以上でも以下でもない。