体和日記 Tai-wa-nikki

茨城県つくばを拠点に、体和塾(カラダを和ませ、カラダで世界と和する塾)という活動をしています。ハートオブヨガ、甲野式身体術、哲学などから考えたこと、感じたことを、赴くままに。

聖人ではない僕が、毎日ヨガをするために。

続けるには・・

 

継続は力なり。

 

特に、カラダに関わることは、ある程度続けないとその効果や影響は分かりにくい。

 

なぜか?

 

カラダが恒常性を持った物体だからである。

 

カラダには恒常性があるから、ちょっとのことでは変わらない。「これまで通り」を維持しようとする。

 

逆に言えば、一旦何かが習慣化してしまえば、カラダはその習慣を恒常性として維持しようとする。

 

では、続けるにはどうしたらよいか。

 

例えば、ランニングという習慣を考えてみる。

 

高校時代の僕は、「サッカーの試合で活躍したい!」という目標があり、そのために毎朝グラウンドを走っていた。

 

当然、辛いときや疲れているときに、「今日はやりたくない…」と感じることも多々あった。

でも、それでもこの習慣を継続できたのは、先に挙げた目標や、部活の仲間など、「僕を突き動かす何か」が常に存在していたからだろう。

 

ある時は、成功しているアスリートの言葉に勇気づけられ、ある時は頑張っているチームメイトに刺激を受け、ある時は目標を意識し直して・・

 

いわば、「今日走ればきっといいことがある!」という気持ちを維持できるよう、自分に魔法をかけ続けていたようなものだ。その自分に酔っているあいだのみ、僕は走ることができる。魔法が解けかかっている時は、必死になって魔法をかけ直すための材料を探し、また自分に魔法をかけた。

 

魔法が解けるとき

 

だが、高校のサッカー部を引退したその日から、僕のこの習慣はパタリと終わった。

 

目標がなくなったんだから、そりゃ当然でしょ、受験生なんだし・・・というのが一般的な見方だ。

 

でも、あれほど毎日続けられたことを、パタリとやめて何の疑問も持たないことが逆に不思議ではないだろうか?

 

要は、「走ること」は、僕にとって、それほど大事なことになってはいなかったということなのだろう。

魔法がかかっていなくても、目標がなくても、当たり前に続けるほどのものにはなっていなかったということだ。

 

「純粋さ」の希求と、それに辿り着けない葛藤

 

ところで、今年に入って僕は、ヨガのポーズを一切とらなかった日は一度もない。

飽きっぽい僕が、曲がりなりにもこの習慣を継続できているのはなぜか。

 

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自覚的に、「魔法をかけている」気はしない。

むしろ、ヨガをすることに対してあまり効果を求めていないからかもしれない。

だからこそ、淡々と続けられるのかな、と思ったり。歯磨きのように、当たり前のものとして。

そんな風に言いたくなる。。。

 

が、

よくよく考えてみると、僕のヨガだって、そんなに純粋なものではない。

効果を求めない、無欲なプラクティスができているかというと、そんなことはない。

やっぱり、どこかで無自覚に魔法をかけているのだ。

 

ある時は、ヨガの先人の言葉に奮い立たされたり、ネットで「ヨガの効果」みたいな記事を読んだり、インドでの経験を思い出してみたり。

 

そのようにして、「ヨガをしている自分」に酔わせてもらっている。

 

もし、このような魔法(動機づけといってもよいかもしれない)を一切なしにして、純粋に、無欲にプラクティスができるなら、それは素敵なことだ。

でも、そんな純粋性を、人は持てるのだろうか。(目指すべきところではあるんだろうけど。)

 

聖人ではない僕が、聖人の境地を想定しても仕方ない。

魔法をかけずとも続けられることが理想だと知りながら、やっぱり魔法をかけ続けるしかないのかもしれない。

 

長年走ることを習慣としてやり続け、毎年フルマラソンも走るという小説家の村上春樹氏は、こんなふうに言う。

 

 走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんぐらいある(・・)僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。

『走ることについて語るときに僕の語ること』

 

 

残念ながら、僕にとってのヨガは、「理由」がなくても無欲にこなせるほど自然なものにはなっていない。だから、理由を求め、自分に魔法をかけ、自分に酔ってでもやろうとすることが、少なからずある。

素敵なヨガの先生に会って、「自分もああいうふうになりたい」と思ってみたり、スピリチュアルな雰囲気に酔ってみたり、ポーズの格好良さを求めてみたり。

 理由の中には、「不純な動機」と呼べなくもないようなものも混じっている。

 

でも、そうでもしていかないと、僕はすぐにさぼり出すんだろう。

 

魔法をかけなくても続けられるほど当たり前になるために、魔法をかけ続ける。なんだか変なことを僕はやっているわけだ。