的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

なぜ僕らには利き手があるのか。

人間のカラダってよくできているな、とつくづく思うんだけど、今日はこんなお話。

 

ふと湧いてきた疑問。

 

なんで、利き手、利き足があるんだろう?

 

色々考えた結果、浮かんできたのがこんな話。

 

自由を課されたとき、どうなるか。

 

ビュリダンの驢馬という寓話がある。

 

13世紀、フランスの哲学者が行った思考実験。

 

お腹を空かせた一頭の驢馬がいる。

その驢馬の両側に、全く同じ量の餌が、全く同じ距離に置いてある。

さあ、驢馬はどっちを選ぶ??

 

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ビュリダンの結論はこうだ。

 

左右の餌が、全く同じならば、驢馬はどちらかを選ぶ根拠が全くない。

だから、驢馬はどっちも選ぶことができず、やがて餓死してしまうというのだ・・

 

そんな、バカな。

餓死する前に、どちらかを選ぶに決まっているでしょう。

 

でも、「どちらかを選ぶ」という時、その選択の根拠は何なのか?

 

もし、何らかの理由があってどちらかを選択するのなら、いわばその理由によって「選ばされている」のであって、驢馬は「自由に」選んだとは言えない。

一方、まったく理由がなく、「自由に」選択できるとすると、どうしたらよいのか分からなくなる。

 

どっちでもいい、エイやっ!と選択するときには、理屈を超えた何かが働いている。

この話が、哲学上の難問とされているのは、「自由」をめぐって深い議論が可能だからだ。

 

ちなみに、ライプニッツという哲学者は、「全く同じものなどこの世に存在しない!」という不可識別者同一の原理を持ち出して、この問題を解決した。

 

全く同じものなどないから、そもそもこの実験は成り立たない、ということだ。

 

迷わないために。

 

 ちょっと話が脱線しすぎた。

 

僕が思ったのは、「どっちでもいい、自由だ!」という選択を迫られたときに、迷わないために利き手と利き足があるんじゃないか、ということだ。

 

とっさに、落ちてくるものをキャッチするとき。とっさに、一歩足を踏み出すとき。

 

その時に、「どっちの手(足)を出そう?」なんて、迷ってられないよね。

 

その時、利き手(足)がパッと出る。そこに、迷いもなく、理由もない。

 

人間には、利き手と利き足がある。

 

とっさの時に迷わないように、人間のカラダは作られているんじゃないか。

 

ひとまず、こんな結論に至ったわけです。

 

だからどうってことないし、何の役にも立たない考察かもしれないけど、なんだかこんなことを考えてしまうんです。