ヨガの「資格」ってナンだ
今年の夏、僕はヨガインストラクターの資格を取った。というより、インドで1か月ヨガをしたら、結果的にもらえた。
ヨガにおける「資格」って、どんな意味を持つものなのか。
最近思うのは、「資格」ほどヨガからかけ離れたものはないな、っていうこと。存在自体が矛盾に満ちている。
資格って、ある種の「保障」を僕たちに与えてくれる。あなたは、ヨガを教えられる能力がありますよ、っていう保障。
でも、ヨガって、そんな保障が得られるものじゃない。
「これさえやっておけば安心」みたいな保障って、ヨガからかけ離れている。
常に自分の身心と対話し、見つめ直していく。ヨガって、その過程でしかない。
幸か不幸か、ヨガには、訓練法が多彩過ぎるほどある。さまざまなポーズ、呼吸法、浄化法、瞑想…
それは、ある意味で親切だ。お寺に行って、「ただひたすらに坐れ!」と突き放されるような「不親切さ」とは一線を画す。
でも、この親切さは、落とし穴の多さでもある。山を一歩一歩登っていく、その足場が保障されているような錯覚を起こしてしまいそうになるからだ。
本当は、自分の力で道を作り、歩いていくしかないんだよね。「ヨガをする」とは、「ヨガという方法論に自分をはめ込む」のではなく、自分を縛っているものから出ていくことに他ならない。 ヨガをするとは、ヨガという靴を履いて歩くことではなく、靴を脱いで裸足になることでしかない。
逆説的だけど、「ヨガ」の規則に縛られるようになったら、それは最もヨガから遠い、とすら言える。
だから、資格によって能力を保障されることもできない。何か方法論を見つけたからといって、「これで安心!」ってことはない。本質的には、「ヨガを教えること」なんてできないんじゃないかな。
カントは、
「哲学を学ぶことはできない、せいぜい『哲学すること』を学べるだけである」
と言った。
それと同じように、こうも言えるはずだ。
「ヨガを学ぶことはできない。せいぜい『ヨガをすること』を学べるだけである」
僕は、資格のおかげで、形式上「ヨガの先生」という立場に立つことができるようになった。
でも、教えられないんだよね。僕だって、他の先生から「ヨガ」を学ぶことはできない。
強いて言えば、みずからの身心と対話し、その都度真摯にヨガをするその「姿勢」は、学ぶことができる。
ついつい、「これをやっておけば安心!」という方法論を求めてしまう。でも、それは、自由を放棄し、方法論の奴隷になることを自ら選択しているようなもの。ニーチェさんならこう言うだろう。
方法論を捨て、生身で生きよ!
何かに寄りかかりたくなる「弱さ」を捨て、強くなれ!
あえて言うと、僕は裸足になり、自分の足で歩くためにヨガをしている。