読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

体和日記 Tai-wa-nikki

つくばを拠点に、体和塾(カラダを和ませ、カラダで世界と和する塾)という活動をしています。主な着想元は、ハートオブヨガと武術的な身体術。

日常の中に棲むサムライ的なもの

「動作術探究」の実態

 僕が現在メインで行っている活動のひとつに、大学一年次に設立した大学サークルがあります。(現在は、「体和塾」という名称で週一活動。)この会では、主に僕が甲野陽紀氏(身体技法研究者)から学んだことを、僕なりに解釈しながらメニューを考え、稽古しています。

具体的にやっていることと言えば、手を挙げたり、棒を持って前に出したり、歩いたり、と言葉にするとなんだかすごく地味でピンと来ないものばかりです。

 

 しかし、実際にやってみると、普段行っている何気ない動作の中に、実に奥深い世界があることが感じられます。そこから見えてくる「動作のコツ」のようなものは、実は昔から武術などの世界で大切だとされてきたことと一致したりもします。

f:id:yutoj90esp:20161106124702j:plain

 

何故、「手を挙げる」ことが稽古なのか?

 その一例として、「手を挙げる」という稽古を取り上げてみます。「手を挙げる」という動作を題材にする際、やることは、「ただ手を挙げること」それだけです。

 

???という感じでしょうが、この「ただやる」ときの何気なさ、当たり障りのなさを大切にすることがスタート地点になります。

 

 続いて、相手に腕を軽く押さえつけられながら、手を挙げてみます。すると、大抵の場合、この「押さえられている」腕が気になり、(その押さえられている腕をどうにかしようとするため)先ほどの「何気なさ」、「当たり障りのなさ」がなくなります。そして、なんとかして筋力を使って腕を強引に挙げるような、「何気なさ」とはほど遠い動きになってしまいます。

 

f:id:yutoj90esp:20161106124734j:plain

ここで僕は、相手と対立しない力を目指したいのです。ちょうど武術でも言われているように。

対立しないためには、まず自分が「戦う意向」を示さない、ということが必要になります。押さえられたという事実を気にした瞬間、相手もそれに反応し、筋力による勝負のようなものが始まってしまいます。

相手に押さえられているという事実を「気にせず」、「ただ」手を挙げることができたとき、そこに対立は起きません。押さえている相手は、なんだかつかみどころがないまま崩されてしまった、という奇妙な感覚を味わうことになります。

 

 この「気にしない」という芸当が、なかなか難しいのです。それは、剣の極意を訊かれた宮本武蔵が、

 

「地上に幅三尺(約1メートル)の板が置いてあり、その上を歩けと言われれば誰でも歩ける。しかし、その板が姫路城から向こうの山の頂上まで渡してあったら、たちまち足がすくむだろう。しかし、それを同じ幅三尺と考えて渡れるのが剣の極意である」

 

 

と、答えたことからもわかります。この場合、「高いところに板があるから、落ちたら死ぬかもしれない」という事実を「気にしない」ことが大切になるのです。

 

その状況にはらむ困難さや障害を気にせず、「ただ行う」ということ。「手を挙げる」という単純な動作の中にも、このような奥深さを追求する余地があります。

 

道着を着なくても

 「武の境地」「剣の極意」などというとものすごく敷居が高いように思えますし、それだけで抵抗がある方もいるかもしれません。

 

 僕が探究しているのは、道着を着たり、型を習ったりしなくても、日常に行っている動作を深く見つめることにより、このような奥深き世界を垣間見ることは可能なのではないか、ということです。

 

 大きく言うと、普段見落としているありふれたものにこそ、実は尊いものがあるのではないか、ということですね。