体和日記 Tai-wa-nikki

茨城県つくばを拠点に、体和塾(カラダを和ませ、カラダで世界と和する塾)という活動をしています。ハートオブヨガ、甲野式身体術、哲学などから考えたこと、感じたことを、赴くままに。

何かを身につけたいとき、本当に必要なこと

必要だからできてしまう

 生まれたばかりの魚は、誰に教わるでもなく泳ぎ方を習得し、生まれたばかりの子鹿は誰に教わるでもなく立てるようになります。人間の子どもも、立って歩けるようになるために失敗を伴う訓練を要しますが、最終的には立ち方や歩き方を誰に教わるでもなく習得していきます。

 

 それは言うまでもなく、生きていくために必要不可欠な能力だからです。

 

 でも、どうやって身につけているのかは、厳密にはよく分かりません。その習得自体がいとも簡単に行われてしまう一方で、その習得方法を解明するのは容易ではありません。

 

いずれにせよ、「必要不可欠さ」が動作上達のキーワードであることは間違いなさそうです。稚魚にとっての泳ぎは、まさに生存のために不可欠な能力です。しかし、この「必要不可欠さ」は必ずしも生命の維持に直接関わるものだけではないようです。

 

 例えば、日本で長年暮らすことになった外国人が箸の使い方を身につけざるを得なかったり、スポーツ選手が人生を懸けた試合で普段以上の能力を発揮したり、と。これらは、それができなくても即、「死」を意味するものではありませんが、本人にとって必要不可欠だからこそ、必然的に発揮される能力となります。

 

 さらに言うと、この習得には、僕たちが「習得」という言葉に付随させる、習得への期待、不安、歓びなどがほとんどありません。魚の泳ぎには「もし泳げるようにならなかったらどうしよう」という不安も、「泳げるようになったら楽しいだろうな」という期待も、「ついに泳げるようになった!」という歓びも、おそらく付随していないでしょう。それは淡々と為され、「ただそうなっていく」のです。木がただそこに生え、育っていくように。

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習得を待ちわびる準備状態

 ならば、人が何かを習得する際に必要なことは、習得方法や訓練時間ではなく、むしろ必然性を以て習得を待ちわびる準備状態ではないでしょうか。生まれたばかりの魚は、生まれつき泳げるというよりはむしろ、泳ぐことを待ちわびる準備状態が生まれつき出来上がっているのだと考えることができます。「習得を待ちわびる準備状態」さえ備わっていれば、身につける方法が分からなくても、身についてしまうものなのでしょう。赤ちゃんが歩きを習得する際、自分でもどうやって身につけたか分からないように。

 

 現代人がカラダの可能性を追求することの難しさは、そうする必然性が低い、というところに理由があります。例えば江戸時代でしたら、郵便を遠くに届けるために速く走らなければならないという必然性があります。今は、交通機関が発達しているので走る必要はないのです。

 

 難しいのは、この「準備状態」は、教育や学習によって身につけることがほぼ不可能であるということです。必然性とは、あることをやむを得ずしなければならないからこそ必然性なのです。それを教育や学習によって人為的に作り出した時点で、それは必然性ではありません。

 

 じゃあ、どうすればよいのか。今の僕にその答えはありません。

 

しかし、オリンピック選手が技能を習得していくときには、その習得にある種の必然性があるように見受けられます。「自分はこれを身につけなければいけないんだ」というある種の必然性です。

 

 さっき言ったことと矛盾するようですが、彼らは、「習得を待ちわびる準備状態」を人為的に作り出すことに成功した、とも言えます。それは、彼らの必死さ、純粋さが可能にするものです。

 

 僕らが何かを習得しようとするとき、「どうやって」身につけるかばかり気にしてしまいがちですが、「どれだけの真剣さ、必然性を以てそれを希求しているか?」ということも忘れるべきでないポイントです。オリンピック選手の熱い姿勢を見て、そんなことを考えました。