ウソをつかない方がよい、ひとつの理由
ウソや隠し事は、「バレなければいい」では全然ない。
人間が行為する際には、たとえその行為が他の誰にも、何にも影響を与えていないようにみえたとしても、「学習」という作用が避けがたく起こってしまう。
つまり、その行為によって内的に変化が起こり、それは深いところで僕らの「人間性」を司り、次の行為や次の次の行為まで、根深く影響を及ぼしてしまう。
ビリヤード球は、「壁にぶつかる」ということによって学習し、次の衝撃を嫌がったりはしないが、僕ら動物はひとつの行為によって必ず内的な変化も被る。
「バレなければ大丈夫」と思っているのは、そういう意味で、自分を力と衝撃のみが支配する非生命(プレローマ)にすぎないものとみなす誤解を冒しているといえる。
それは、生命世界(クレアトゥーラ)の複雑さをナメている、ともいえる。
さて、ウソをつくとどうなるかというと、それを隠そうとする。
つまり、自分の内面に潜めていることと、外的な表出を一致させないような振る舞いを学習しようとする。
自分の内部での情報伝達における歪みを生産してしまうようになる。
つまり、嘘をつくと、それが誰にバレなくても、つまり外的には何も影響を与えていないにしても、僕らの内面を蝕むことになる。
その歪みは、その後に行う行為にも確実に影響を及ぼしてしまう。
この悪行(あえて悪行と呼ぼう)をぬぐい去るには、さらに多くの善行が必要とされるだろう。
インド人なら、これをカルマと呼ぶのかもしれない。行為はカルマを産み、人はそれに縛られ続ける。
このような話を信じる信じないに関わらず、自分の内面で考えていることと、外的に表出することの乖離を進めてしまうような習慣は、少ない方がよいと僕は思う。
satya-pratysthayam kriya-phala-asrayatvam
サティア(真実を話すこと)が確立すると、行為と発言が一致する。
(ヨーガスートラ2.36)
ヨガの練習(=現実そのものに直接寄り添おうとする営み)をしていると、 外的に起こっていることが、自分の内面と一致しないのが徐々に心地悪くなってくる。
すると、このような態度もおのずと確立してくるのかもしれない。
風邪をひいてます。その最中に。
風邪ひいております。
一昨日から、久しぶりに高熱を出し、寝込んでいます。
高熱は、普段処理し切れていない「悪いモノ」も殺してくれると聞きました。
もちろん、「悪いモノ」だけじゃなく、通常の機能を果たしている器官たちも熱に晒されるし、場合によってはそれらも壊され、作り替えられているのかも。
だから、しんどいわけです。
寝てるしかないわけです。
最近読んだ福岡伸一さんの本によれば、「生命は、先回りして自らを壊すことによって、秩序を保っている」とのこと。
僕らは、過去から築いてきた秩序を消費しながら生きつつも、未来に向けてその秩序を壊し、作り替えることによって、おのずと崩壊に向かうエントロピーを先回りすることができる。
今、僕の中で壊されつつ作られているものは、ちょっと先の未来に向けてより適応的な生を提供してくれる。
逆に言えば、今つくりつつある秩序によって、僕の未来が多少なりとも規定される。(未来から過去に時間が流れる。)
一方、生命が今まで作ってきてくれたこの秩序(身体)を、少しずつ消費することによって僕は今、生きることができている。(ここでは、普通に過去から未来に時間が流れている。)
この過去と未来が、矛盾的にひとつであり、そうであることによって自己が保たれていることを、「絶対矛盾的自己同一」と西田幾多郎は言ったらしい。
普段はなかなか実感できない、「先回りして壊す」という生命の機能を実感している、風邪の日。
健康体に戻った時、「いつも通り動ける」という奇跡を支える生命の絶妙な計らいに、ふと感謝するのかもしれません。
「いろんな経験をしろ」が、なんとなくイヤな理由
「いろいろな経験をするのが大事」。
よく人から言われるし、自分に言い聞かせる言葉としても、これに近い表現をすることがある。
特に若いうちは、いろいろな世界を知らないと・・・なんてね。
別に間違いではないし、「いろいろな経験をすることは大切」だと、僕も思う。
が、「いろいろな経験をしよう」と思って何かをするのは、何だかおかしいと思うのだ。
なぜかと言うと、そう思って積む経験が、「道具的」、「手段的」になってしまうから。
ちょっと意地悪な見方をすると、後になって「私はこんなに多彩な経験をしてきました」と言うための手段にすぎないものとして、その瞬間を生きるようなものになってしまうのだ。
そこにある経験は、一回きりで、もしかしたら人生最後の日かもしれないのに。
「思いがけず、ハッと目を見開かれるような経験」や、「今までの自分を覆され、世界の見方が変わるような体験」は、別にそういう経験を得ようと思って得られる類いのものではない。
だとしたら、「いろいろな経験をしよう」などというあからさまな心構えは、別に要らないのだと思う(小説を読んだり、美術館に行ったりする時、僕はこれをやりがちなのだが)。
まあ、あえて撲滅しに行くような類いのものでもないから、「いろいろな経験をしよう」という言明に対して、強く反発したいわけでもないのだが…
何となく存在していた違和感の正体は、明らかにしておきたかった。
ある友達が言っていた言葉。
「統一感は別に要らんけど、一貫性は要るよなぁ」
自分の心が向くものに従った結果、きれいに統一感のある経験が揃ったり、「ほんとにこれが一人の人の経験なの?」と思うほど雑多なラインナップになったりすることがある。
その統一感の有無は、別にどっちでもいい。
あえて統一感を出そうとする必要はない。
「雑多」な方が面白く見えたりするのかもしれないが、あえて「雑多さ」を目指す必要もない。
自分以外の、何者にもなれないのだから。
ただし、その一回一回の経験において、その都度自分に対して真実であったか、心の導くところに従えたか、いのちにとって自然であったか。
その一貫性は、あった方がよいと思う。
"Yoga is to go in your chosen direction with continuity."
「あなたの選んだ方向に、継続的に向かうこと」。
この時選ばれる方向性は、ことさらに「私が」選ぶというより、気づいたら選ばれてしまっている何かがある、というような感覚だ。
いつの間にか何かを、誰かを好きになっている時のように。
そのようにして選ばれた対象の数々が、後から振り返った時に「統一感がある」か、「雑多な経験が積まれている」かなんて、確かにどっちでもいいのだろう。
それより、その都度の選択において、真実でありたい。
私の生命によって、その都度何が選ばれるのか。私にさえ予期できないというところに、生命の特徴があるのではないか。
予想し切れない人生で、本当によかった!
そのおかげで、生きるのに飽きずに済む。
ハートを生きる??
つかみどころのない、しかし確実に存在しているもの。
それが存在していなければ、あとのすべても全く存在し得ないような、源。
それを、身体的に感じることがある。
胸の真ん中辺り、ハートに。
吸う息が入ってきて、吐く息がそこから出ていく、
はっきりと指し示すことはできないけれど、
そこに「ハート」がある。
そして、たまに訳も分からずハートが疼いたり、イヤだと告げてきたり、求めるものを指し示してくれたりする(ような気がする)。
その方向性に従っていれば、なんだか大丈夫な気がする。
でも、このベクトルは、長さのない矢印(矛盾しているけれど)のようなもので、
ひとまず方向性だけは示してくれるけれど、そこから先がどうなっているかは全く見せてくれない。
その方向性に沿って、肉体が、マインドが、実際に行為を為していく。
この指し示してくれる「ハート」は、
どうも(肉体で区切られた)「自分」だけのものだとは思えないし、
全生命を貫いているようにも思えることがあるし、
ということは、この肉体が死んでも、在り続けるような気がする。
本当に、「気がする」だけなのだけど、そんな想いを持って、
久しぶりに「バガヴァッド・ギーター」を読んだら、なんだかすんなりと入ってきた。
ここにあるこいつは、「自分」が死んでも死なないかも??
大学生活があと一年になり、本格的に進路を考える時期。
どうやって収入を得て、どんな技能を身につけて、何者として生きていくのか。
そんなことばかり考えていると、肉体の中に閉じられた、寿命の限られた、一個の不安な、弱い存在としての自分しか見えなくなる。
それが、結構苦しい。
そんな中、今日ふと思ったことは、そんな日常を生き抜くための、
強さを授けてくれるだろうか。
そして、自分の死さえも乗り越えた、ひとつのダルマ(仕事)を為すための、
必要な智慧をもたらしてくれるだろうか。
この先、全然どうなるかわからないけれど、ここにある大事なものは、
大事にし続けたいと思う。
言語の一面性について
言語とは通常、ひとつの側面だけを強調して語る。
言語という、直線的に編まれていくこの道具の、宿命とも言えること。
一度にひとつのことしかしゃべれないし、
ひとりの人には、ひとつの口しか付いていない。
「もっと食べたいな」という言葉の中には、ほんらい、
「でもお腹がはち切れるほどはいらないよ」という逆の意味も含まれている。
が、言語は片側だけを強調してしまう。
もっと多く!
そして、この言語をもとに、
常に「もっと多くの食物を望む存在」であるかのように、人々が想定され、
その想定に基づいて社会がつくられていったりする。
うーーーむ。
この誤謬から離れるには、その言語が立ち現れてくるところ(=生命、現象)に立ち戻り、本来の意味を生き直すしかないのだが、
速く、多く、効率的に、という世界観にどっぷりはまっていると、
そんな面倒なことをしなくなってしまう。
ここに、危うさがあるような気がしている。
生命は、実感できなさに特徴をもつ。
有限な閥を持ってこの世に生まれる僕らが、実際にありありと(tangibeに)何かを感じられるとは、僕らの知覚範囲の中で、何か特定のものだけが特異的に変化を生じさせている、ということだ。
・知覚範囲を超えたものは、知覚できない
・もし全体が一律に変わっていたら、変化を知覚できない
・何も差異が生じておらず、まっさらな世界だったら、何も知覚できない
だから、ありありとした実感を求めるなら、何か知覚しやすい特定のものが、他のものとの関係において、特異的に、大きく変化することを求めることになる。
例えば、「筋力トレーニング」とは、
身体の一部分だけを特異的に意識し、強化するからこそ、「鍛えているな」という実感が得られる。
一方、全身の力が滞りなく使われる「武術家の技」は、
どこにも力感がなく、捉えどころのないまま行われる。
明らかに、分かりやすく、理論化しやすく、多くの人が進んでしたがるのは前者だ。
しかし、G.ベイトソンは言う。
「生命に単調な値はない。」
つまり、多ければ多いほどよいような値や、少なければ少ないほどよいような値は、生物学的に存在しない。
しかし、人間のこのような知覚の仕方からして、何か特定の値のみが上昇(下降)を続ける様が、好ましいかのように錯覚されてしまう。
(そしてこの錯覚は、「お金は多ければ多いほどよい」という誤解に結びついていることが多い。)
では、生命にとって自然なあり方はどうかというと、
当たり前だが、僕らの知覚範囲では到底とらえきれない諸要素が、それぞれ有限な柔軟性をもち、それを超えたら害になってしまう最大値や最小値を超えないよう、均衡を保っている。
これらを、理論化し尽くすことは不可能。
そして、分かりやすい仕方でありありと実感することも、きわめて困難だ。
端的に言えば、「中庸」とは手触りのなさに特徴を持っている。
人間が知覚し、思考の軌道に乗せ、具体的に語り、推進したり抑圧したりできることは、中庸でないこと、特定の変数のみが特異的に変化することにかかわるものなのだ。
もし生命の全体を、均衡として、ひとつの値変化に準じてすべてが少しずつ変化しバランスを保つ複雑な連関としてとらえようとしたら、決して一部分にありありとした実感を求めない、拠り所のない全体感覚を育まなければならない。
ということは、「中庸」に基づいて社会理論を構築したりすることは、きわめて困難である・・・
生命中心に思想、社会を構築しようとする「ディープエコロジー」などの困難さは、ここにあるのだろう。
生命の絶妙な均衡は、人間の直線的な論理によっては理論化し切れない。
無理に少数の言葉に収れんさせれば、そこからはみ出る生命の側面を排除した、独断的な思想になってしまう。
(ディープエコロジーは、急進的なものだとファシズム的な危険を持つ、と言われたりもする。)
エコロジカルな思想は、見通せなさから成り立っている。
それでも見通しをつけたがり、理論化したがるのが僕ら人間だ。
この困難さに、どう向き合ったらよいのか?
一人一人が、自らのもとに生じているその生命に、直接ふれられるような経験を育むこと(direct participation in Life)。
ひとまず今のところは、それしか思いつかない。
メタファーを組み替え、花粉症に対処する。
僕らは、メタファー※1(隠喩、物語)を用いて考える。
あるメタファーによって現象を一度とらえると、僕らの知覚作用は、そのメタファーに浸食されたイメージによって現実を見るようになる。
そのメタファーが、あまりにも不適切にも関わらず、よく吟味されずに用いられていることがある。
そして、改めてそのメタファーを組み直すことで、現実のとらえ方が少しはマシなものになるかもしれない。
というような文脈で、もう一度花粉症についてもう一度考えてみる。
一般的に流布している、「花粉を敵として捉え、どうにか締め出そうとする努力」は、どう見ても不適切なメタファーにみえる。
そこで、「マインドボディーヒーリング」というメタファーによって、捉え直すということを行った。(参照『花粉症になんか、させられるんじゃない!』)
しかし、この枠組みを以て現実に臨んでも、症状が改善しないことがある。
特に難しいのは、「イヤ!」と感じている心に対して、いかに話しかけるか。
これは、泣いている子どもをいかにあやすか、ということに近く、決して定式化できない。
もうちょっと一般化して言うと、
「あなたが愛する人に対して、その愛を示すための然るべき方法については、どんな科学を以ても、決して定式化されないだろう!」
といったところか。
愛に満ちた気遣いをするには、その都度新しくなくてはならない。
それは、斬新なやり方を発明する必要があるというより、毎回未知なものとして現象に臨む必要がある、ということだ。
そして、時には斬新なアイデアが功を奏すことがある。
花粉「症」というメタファーに捕らわれてどうしようもない時、マインドボディーヒーリングのことも忘れて、全然違う視点で、花粉のことを想ってみた。
ああ、あなたも、我々人間と同様に、不条理に増えすぎた種なんだな、と。
僕ら一人一人が、訳も分からないまま、しかし増え続ける人口の一項として生まれたのと同様に、あなた達も人間によって埋められ、不条理なほど増え、しかし生きているからには生き続け、花粉をばら撒かざるを得ない哀れな(?)種なんだね、と。
そして、輪廻転生というアイデア(これもまた、ひとつのメタファーである)を受け入れるなら、あなたはかつて私だったかもしれない。あるいは、私の母だったかもしれない…
と、こんな戯れをしてみると、明らかに私‐花粉の関係が組み替わる。
私と不可避的に関わってしまう花粉という「異物」は、ある関係においては「敵」だが、僕らの対応次第では、新たな調和を作り出し、一緒にダンスを踊る関係になれるかもしれない。
癒し。それはいつも最後にくるべきものなわけではないが、それでも、この関係性における新たな調和が、最後に癒しをもたらしてくれることを、有限な「私」は望んでいる。
おそれ。それは見ないようにするべきものではなく、見方を変えてやるべきもの、そして、徹底的に見てやるべきものだろう。
時には排除もしたくなる「異物」も含めて、多種多様なもの、人との出会いが、より大きなシステムとして、私に新たなダンスを踊らせてくれますように!
苦しみを含めた雑多な経験が、私が編み上げるこの生に、豊かな実りをもたらしますように!
さて、私はこの「異」なるものと、どんなダンスを踊れるだろうか?
例によって深夜(早朝)に書いた文章なので、支離滅裂かもしれないけれど、ひとまずこのまま上げておく。
※1「メタファー」
隠喩というと、詩などで用いられる「たとえ話」のようなものを思い浮かべるが、ここで扱っているのはもっと広義だ。
事実、あらゆるコミュニケーションはメタファーである。
「現実が、あたかも記述したその様であるかのように、記述をする」
to describe as if the reality is how we describe
というやり方によって。
例えば、DNAが遺伝情報を伝える際のコミュニケーションだって、現実を「ありのままに」伝えているのではなく、DNAなりに切り取った「こんな感じ」というメタファーを、あたかも現実そのものであるかのように伝えているのだ。
「そんな言い方、現実そのものじゃないでしょ!」というツッコみを「しない」ことによって、僕らのコミュニケーションは円滑に成り立っている。