Satー在るーの知覚
神秘とは、世界がいかにあるかではなく、あるというそのことである。
「在る」ということが、すでにはらんでいる神秘、美、完全性がある。
これは、(その気になれば、)いつでも味わい得る。
この味をしっかりと覚えておいて、あとからいつでも味わえるような道筋をしっかりと整えておこう、なんていう構えなしに。
常に与えられており、いつでも味わいうる。
ある人は、これを「時間軸上を無限に伸びたフランスパンの妙味」と表現した。
その例えでいえば、そのフランスパンは、いつでも私たちを貫いているし、もっと言えば、「私たち自身がフランスパン」なのだ。
美を知覚するとは、おそらく、存在していることそのものの知覚に他ならない。
なぜならその時、「私」と「知覚物」などの主客関係など崩れ落ちており、
ただ「美」の知覚があるから。
その時、「美」の勢力範囲から排除されている外側などないし、「美」とは別のところにいる「私」もいない。
だから、その知覚を素直に書き換えれば、「美があった」くらいしか言えないはずだ。
それなのに、「私が」「美しいものを」「見た」などという記述の仕方に、我々はすっかり慣れている。
それによって、存在しているもの(の様式、在り様)のある一部分が美しいのだと、(したがって他の部分は美しくないのだと)誤解したところにおそらく我々の誤りがある。
そして「○○が美しい」、「私」はそれを知覚する主体である、という記述の仕方を続ける限り、この混乱は起き続けるのだろう。
何はともあれ、誤解が起きるこの「構造」を理解しておくことは、
「いつかどこかで訪れる、特別で劇的な体験こそが私を真に幸せにしてくれる」などという幻想から目を覚ましておくことには役立つ。
そんなものはないし、いつの日か「ほんとうの自分」になれる、なんてこともない。
とは言え、常にこの理解に留まることができるか、というのはまた別の問題だ。
バガヴァッドギーターが言うような、「常にブラフマン(根本的実在)と共にあれ」ということは、なかなか難しい。
あらゆる身体的、精神的苦痛が、存在の様式(在り様)の方に我々を固執させ、「存在」に目を向けさせない。
あるいは、言語の使用ということだけでも、先述したような誤謬に簡単に巻き込まれる。
一方で、明晰に存在Satを見通せているような感覚になることもある。
その状態を、おそらくSattvaという。
この状態であるためにこそ、我々はハタ・ヨーガなどの手法を用いて、自分の状態を整えたりする。
しかし、そこにおいて身体や呼吸を用いるからこそ、身体や呼吸の在り様の方に、
注意が持っていかれてしまうことは、常にあり得る。
(だからこそ、ハタ・ヨーガはアーサナだけでなく、プラーナーヤーマ、瞑想までやる必要があるのだろう。Sattva性に整った身心において、注意を身体や呼吸の在り様から、それらが在るという一点に向け直すのだ。)
ヨーガスートラは、あくまで人間的身体に宿った精神を扱っている。
その時、Sattva性に近づくためのさまざまな技法が語られるのは、
そのこと自体に価値があるからではなく、またその技法とSatの知覚に論理的なつながりがあるからではなく、
なぜか、偶然、(そうでないこともあり得たのに、)
現に与えられている人間的身体において、これをやるとSattva性に近づきやすいから、ということで語られているにすぎない。
我々が存在する時に、もれなく付随してくるのが身体や呼吸だったからこそ、人類はそこに基づいてハタ・ヨーガを開発した。
もし、全然違う仕方の様式が与えられたなら、その様式に合ったやり方で、またSattva性に近づくための方法を考えたのだろう。
我々は、常に今できることから出発する必要がある。
そこにおいて与えられているのが、身体であり呼吸であるということ。
とはいえ、身体でさえも内外に明確な区別はなく、呼吸はまさに世界との交流である。
それらをSattva性に保とうとする努力は、必然的に、世界全体を巻き込む。
ヨーギーが取り組んでいるのは、世界的な変貌なのである。
だから、「悟り」ということに関して、僕が言えそうなことは以下の3通り。
①悟りなんてものはない
②本当はみんな悟っている
③みんなが悟らない限り、悟りはない
共通しているのは、「私(だけ)が悟った」といえる個人などいない、ということだ。
どれが一番的を射ているかは、よく分からない。
今回参考にした本
・『ハイデガー=存在神秘の哲学』古東哲郎
・『ただそのままでいるための超簡約指南』J.マシューズ
・『精神と自然』G.ベイトソン
姉とのやりとり
今日、今まで全くヨガに興味を示してこなかった姉と話しました。
「ヨガの効能を教えてくれて、それが私のニーズに合ってたらやる」
というきわめて男性的な挑戦(?)を受けて、
僕もそれに乗っかり、プレゼンのような形でヨガについて話しました。
僕の伝えた「効能」とは、
「ヨガをすると、自分が本当にやりたいことしかできない身心になっていく」ということ。
「やりたいことがやりたい」とは、たぶん多くの人にとって真理だろうから。すると、
「自分のやりたいことだけやる人生が本当にいいの?」
「疲れてても会社は休めないんだけど?」などという反応。
ヨガの「効能」を「プレゼン」するという仕方でヨガを伝えようとすると、こうなるんだなぁと思いました。その「効能」が、目指すべき「理想状態」のように聞こえてしまう。
そして、その「理想」の正当性を疑ったり、その「理想」からかけ離れている自分を見て惨めになったりする。
だからこそ、ヨガはやはり、
「現実的に」、「実際的に」伝えるべきなんでしょう。
今ここから、できることとして。
本人が心底望むことと、接続する仕方で。
続けていく過程で、自然と心が赴くものがあるかもしれない。
自然と、拒むようになるものがあるかもしれない。
それは段階的で、自然な変化であり、明日からすぐ会社に行かなくなるといった極端な変化ではない(と思う)。
ヨガは、「自分が本当にやりたいことは何か?」という問いに、自己分析の結果のように言語的に答えを出すことはしない。
そうではなく、整った身心で生きたいように生きた結果、
「ああ、これが私の望むことなんだな」という形で示してくれる。
だからこそ、Do your Yoga, and see what happens.
あなたのヨガをして、それで何が起こるのかを見てみましょう。
何か「ヨガ的な」コンセプトや心構えを自分に押し付けるのではなく。
小野洋輔先生は言っていました。
「ヨガをするとは、自分への理解が深まるだけであって、『ヨガをする人』になるわけじゃない。」
ただ本人にとって心地よい実践があり、それによって生が好転していくという経験がある。
その素晴らしい経験を、身近な大切な人たちにシェアしたいという自然な動機がある。
身近な人ほど素直に愛情を示すのは難しいし恥ずかしいけれど、受け取ってもらえたら嬉しい。
必死のプレゼンあってか、「じゃあレッスン頼もうかな」と言ってくれました。
(さて、どうなるか。)
遠慮せずに言えば、たぶん僕の姉は、(全国で無数にいるであろう)ヨガに興味がある20代女性の中で、最も恵まれた立場にいる。
(僕だけでなく、母という生きたヨギー二の同居人もいるわけだし。)
あと、来週末につくばでWSをやります。
「ハタヨガからバクティヨガへ」
特別で神聖な行為と見なされがちの「バクティヨガ」も、
普通に生きる僕らにとって自然なこととして経験したい。
それは、自らの身体、呼吸、生命を慈しむ、ハタヨガの練習から始まる。9/29(土)10:00~13:30(ランチ付き)
Psyche/プシュケ にて。
https://www.facebook.com/events/2280353898942769/写真は今年の元日。姉弟ショット。
「おみそ汁ヨガ」
ヨガスタジオに行ってヨガをするって、人によっては「高級レストランに行って食事する」くらいの感覚なのかもしれない。
ちゃんとお洒落して、上品な振る舞いをして‥というように。
僕が伝えようとしているのは、むしろ「家庭料理のおみそ汁」くらいの感覚だ。
僕がレッスンで伝えられるのは、「おみそ汁の作り方のキホン」と、その日の自分に合わせてどれくらいの味噌を入れて、どんな具材を入れて、どのくらいの量飲むのか、といったことを自分で調整する感受性を養うこと。
だから、一度来てもらって作り方を覚えてもらえれば、あとはご自分の体調、時間(忙しさ)、好みなどに合わせて毎日ご自宅で作れますよ、と(もうレストランに来なくてもいいかも)。
たまに作り方が分からなくなったり、レパートリーを増やしたりしたかったらまた来てください。
毎日、自分に合わせておみそ汁を作り、それを味わって飲むということが、どれだけ人生を豊かに、健やかにしてくれるか。
「ヨガの先生」とはその素晴らしさに誰よりも感動しているからこそ、それを人にも伝えたくなってしまうお節介な人に他ならない。だからこそ、すごーく気軽に来てもらえたら嬉しい。
高級料理であなたを感動させたり、癒したりすることは、僕にはできない。
あなたが普通に持っている味覚で、普通の料理を味わうことの中に、実は素晴らしさがあるというだけだ。
ヨガ実践における「苦しみ」のパラドックス
あえて、こんなことを言ってみたい。
ヨガは、苦しみ(ドゥッカ)の解決ではない。
苦しみのある世界から、ない世界への移行ではない。
ヨガは、部屋の中で行う、気持ちよくなるための儀式のようなものではない。
端的に、生の全体を知覚し、それと親しむことであり、その際に、生の内容がどうこう問題になるわけではない。
だから、生の全体と親しんだ時の感触が、
解放感ややすらぎを与えてくれることもあれば(僕の場合はこれが多いのだが)、
「まだ生きなきゃならないのか」という倦怠感や、
「こんな醜さもあったのか」という嫌悪感を与えることもあり得る。
それでも、生全体に親しむことが、結果的に、自然な癒しをもたらす。
この癒しは、生の一部を切り取って、ネガティブなものをポジティブなものに置き換えようとする努力からではなく、
端的に生全体の抱きしめから生じる。
そこに、問題を解決しようという努力感はない。
だが、生きていることへの全体的な参与こそが、もっとも強力な問題解決だったりする。
だから、(すでに実践を始めている)実践者にとって、「苦しみ」は別に知覚しなければならないものでさえなく、この特性が、
ヨガ実践者を楽観的(悪く言えばお花畑的)にしたりする。
サーダナ、あなたが今ここで行えること。
これに徹している限り、苦しみを捉えることさえしなくてもよく、ただ生を生として生きればよくなる。
では、人がヨガの実践を始める際に、何が起きているか。
人それぞれ、きっかけがある。
まとめると、「苦しみの知覚」と、「それを改善することの予期」といえるのではないか。
僕らは、苦しみ(苦痛ばかりだけでなく、渇望感や憧れなども含む)を感じ、
それを直視するからこそ、現実的な実践に手を伸ばすことができる。
何となくごまかしたり、苦しみを見ないようにしながら生きている限り、生を直視してみようという気にはなれないだろう。
(だからといってこのような人に、「生を直視せよ!」と命ずることが適切かどうかは、僕にはよくわからない。)
さて、苦しみを直視すれば、当然それを経過し、改善したいとの欲が生じる。
その欲は、抑えたり受け流したりするべきものではなく、まさに僕らを実践に向かわせてくれる原動力だ。
この実践を始めようとする一時において、二元性が生じる。
「まだしていない私」と、「これからする私」あるいは「もうしているあの人」との間で。
この二元性を調停するのが、先生(アチャーリア)の役割だ。
私が、何か恩恵を求めて何かをする時、その恩恵と現在の私は、どうしても離れたところにいる。
例えば、
①ほうびをもらえるから(恩恵)、掃除をする(実践)
②きれいになると気持ちよいから(恩恵)、掃除をする(実践)
③ほうきを持って掃除すること自体が楽しいから(恩恵)、掃除をする(実践)
このように、恩恵と実践の関係を記述すると、恩恵はどうしても、「現在(実践する前)の私」からは離れたところにあるようにみえる。
③くらいになると、恩恵は極めて近くにあるように見えるが、それでも「実践前の私」と離れたところにあることには変わりない。
実践前の私にとって、恩恵は、ここにないし、得られるかどうかも分からない、不安をはらんだ代物として映る。
そこにおいて、「親密さ」によって恩恵を分からせてくれるのが、先生(アチャーリア)だ。
クリシュナマチャリア訳では、アチャーリアとは「自分の困難を乗り越えた人」。
その人と、きわめて個人的に、愛、信頼、友情によって結ばれる。
この親密さにおいてアチャーリアは、「この実践は私にとってよかったよ。あなたもどう?」という勧め方ができる。
その時、未実践の人にとっても、恩恵は目に見える、生き生きとしたものとして浮かび上がる。
親密さにおける伝承とは、言語での記述を超えた、恩恵の溶け込ませである。
アチャーリアは、生徒の健康状態、年齢、文化的背景などを考慮し、
今ここから始めることができるもの(サーダナ)を提案する。
この親密さによって、
生徒は「問題解決のための二元的な努力」ではなく、
「生全体を楽しむもの」として実践を始めることができる。
まとめると、
ヨガは、苦しみの解決ではないが、
ヨガを始める際に、苦しみの知覚と改善への欲を必要とする。
その際に不可避的に生じてしまう二元性を調停するのが、
「親密さ」という機能(=アチャーリア)である。
フィジーで出会った中国系ツバル人の19歳、Sioniと。
ヨガ実践者の生きた証を見るという意味で、先月のフィジー滞在は僕にとって大きな出来事だった。「ハートオブヨガ」の提唱者マーク先生だけでなく、各国から集まった「本物の実践者」たちと一緒に生活できたからだ。
とはいえ、個人的に「僕に適した先生」という意味では、むしろ日本人で、日本の文化や生活を理解している先生の方がよいのかもしれない、とも思った。
そういう意味で、小野洋輔先生に出会えたことは、僕にとって大きな財産だ。
僕自身も、できるだけ全人的に思索しつつも、僕と似た境遇にある人の力になりたいと思う。
(9月のレッスン日程はこちら)
輝き
何かひとつ、突出した武器を持て、とか言われたりする。
あなたの魅力に、みんなが気づくためにね。
しょうがないんだ。
あなたそのものの輝きは、悲しいかな、
ほとんどの人には見えないようになっている。
だから、きっかけが必要なんだ。
みんなに気づいてもらうために。
でも、気づいていないのは、あなたの周りの人だけじゃないだろう?
あなた自身も、ちゃんと気づいていないんじゃないか?
忘れてしまっているんじゃないか?
嫌々何かをこなしているうちに、「そこ」で光り輝いているものを、
見失ってしまっているんじゃないか?
そうだ、好きなことをしてみよう。
ワクワクすることをしてみよう。
見てごらん、こんな贈り物(ギフト)が!
あれ?これは前からあったんだっけ?
色覚補正メガネの検査・試着をしたが、購入はしなかった話
以前、色覚についてを連続で書いたけれど、今回はその続編。
最近、あるメガネ店に行ってきた。
目的は、「色覚補正メガネ」というものの検査と試着。
色覚特性(一般的な人と、色の見え方がズレてること、以前は「色盲」とか「色覚異常」と呼ばれていたが、最近はこのように呼んでくれるみたい)。
僕は両祖父からの遺伝により、生まれつきこの特性をもっている。
日常生活に大きな支障はないが、たまに困ることがある。
詳しくはこちら。
父方の祖父は、すでにこのメガネを購入していて、「自分の車を見間違える」ほど変化を感じられたらしい。
というわけで、祖父、父の勧めで僕は横浜のメガネ店に行った。せっかくの親子三代終結ということで姉も合流し、店内をマトバ家が独占した。
メガネの検査の付き添いに家族3人って、めちゃめちゃ過保護な息子みたいで、ちょっと恥ずかしかった。
それはともかく、メガネ検査。
絵とか数字を見せられて、「見えます」「見えません」と答える形式のもの、
違う色のタイルを、「似た色の順に並べる」という形式のものがあった。
色覚特性と言っても、たくさんに分類されるらしい。
検査の結果、僕はどうやら赤系が見えにくいということがわかった。
そこで、赤系を見やすくするレンズを試着した。原理としては、赤以外の光を相対的に弱めることによって、赤を見やすくするということだった。
掛けてみると、確かに世界が赤っぽくみえた。
自分が想定していた「鮮やかな赤」という色が、こんなに世界の中に多いとは思わなかった。例えば、マクドナルドの看板、パプリカ、紅葉(の写真)など。
また、ほとんど白に見えていた「うすピンク」が、しっかりピンクとして認識できた。桜の花、花模様のティッシュケース、もしかしたら、僕が持っている何枚かのシャツもそうかもしれない。
しかし問題は、赤を見やすくすると、他の色が見えにくくなることだった。
僕の場合は、緑系がいつにも増して見えにくくなった。
父や姉が来ていた緑系の服が、ますます何色とも言えない混迷として映った。
僕は二人の祖父から遺伝を受けているので、特性もハイブリッドなのかもしれない。
結果、赤系を補正してくれるメガネをかけても、僕らが世界にある色を見たときに抱く、「○○色とはっきり言えないモヤモヤ感」が解消されることはなかった。
色覚を補正するメガネがあると知った時、一番に期待したのが、この「モヤモヤ感」の解消だったので、それが得られなかったのは残念だった。
それが、今回は購入を断念した最大の理由。
それでも、この体験ができてよかったと思う。もし購入すれば、すべての色がスッキリとは見えなくても、新しい世界の景色を楽しむことができる。
この技術を開発してくれた人にも感謝したい。
色覚特性で悩んでいる人は、一度試してみるとよいかもしれない。
参考:「メガネスーパー:色覚補正メガネとは」
ハートオブヨガ 僕らに接続されるヨガ
どんなに素晴らしい、洗練された文化でも、この世に素晴らしいものとして表れてくるには、ひとつのハードルを超えなければならない。
それは、「あなたが実際にやる」ということだ。
(別にあなたじゃなくてもいいのだが、実際に生きている人によって為される必要がある、ということ。)
文化は、人々の生活に実際に寄与してこそ素晴らしいといえるだろう。
ある文化があなたにとって素晴らしいものとなるには、何らかの仕方で、あなたにとっての(切実な)要求に接続する必要がある・・
という文脈で、ハートオブヨガを捉えてみたい。
ハートオブヨガは、その哲学的背景を、「急進的非二元論 radical non-dual」と評されたりする。
というとなんだか難しそうだが、「何か他のものになろうとせず、ただの自分であることにやすらぎを見出す」ということだ。
二元的思想ーすぐに自分とは他の「理想的境地」を打ち立てて、それを目指そうとするおなじみの思考様式ーをとことん遠ざけていることから「急進的」と付いている(ここには、U.G.クリシュナムルティという人物の思想的影響がある)。
というわけで、先生-生徒、知っている人-知らない人、できる人-できない人といった分離、権力構造をできるだけ生まないような仕方でハートオブヨガは伝えられている。
だから、すごくやさしい印象があるし、実際にものすごくやさしい。
でも、僕らが生きている実際の生は、そんなに平坦でもないし、平等でもない。
端から生の全体を均一的に、非二元的に見渡せるほど、僕らの視点は安全のところにはいない。むしろ、「ああなりたい、こうなりたい」という欲が蔓延する、流動的な世界の中にいる。
学びが起こるときは、先生に頭の中を「乗っ取られる」ような気になるし、そうすることで既存の考えを刷新し、全面的な学びが可能になったりする。
肉体を持った僕らにとっては、やはり体調が悪いよりはよい方が好ましいし、もし悪ければ「よくなるように」努力するだろう。
そのような時、ハートオブヨガが避けようとしている、二元性が生じてしまうのではないか?
「今現にあること」と、「将来なりゆくもの」の間に二分化が生じてしまうのではないか?
ハートオブヨガは、実践的な手段を提供することによって、その二元性を乗り越えているようにみえる。
何かになろうとするその欲動、動き、不安定さが、まさ人々を実践に向かわせる動機になる。
人々は、痛みや苦しみ、あるいは欲望を感じるからこそ何らかの行動に駆り立てられる。
実践を始めるときには、それなりに決意が必要かもしれない。
「この人に教えてもらったことなら、やってみようかな」という信頼と共に、新しい習慣を取り入れるわけだから。
この時一瞬、二元性が生じるようにみえる。
ヨガをやっていなかった今までの自分と、これから始める新しい自分との間で。
しかし、一旦始まってしまえば、ヨガは間違いなく、歓びとして機能してくれる(そうでなければ、それはヨガではないだろう)。
そうなった時、ヨガは、やらなければならない課題ではなく、自分にとって好ましいから自然と行っている、他の普通の生活習慣と変わらなくなる。
生きていることと別にある特別なものではなく、ただ生きることに組み込まれるのだ。
(自らのニーズに適切に合わせられた)ヨガは、努力感なく実際に行うことができる、現実的な手段だ。それを実際に行う、自分をケアする貴重な時間を確保する、と決心したまさにその時、すでに癒しが起きている、ともいえるだろう。
その時生は、心地よい方に向かって進む運動でありながら、同時にすでに完全に機能している完成品である。
新しいことを身につけたり、今までの自分ではない何かになろうとする時のような、大袈裟な努力感は消えていく。
問題になっている苦痛や欲望は、自分とは別のところに存立している、乗り越えるべき大きな山ではなく、今実際に自分が歩いているところのものになる。
こうして、流動的な生の中で、二元性は克服されつつあるものになる。
山道(登りでも下りでも、どっちでもいい)を歩く僕らにとって、山は僕らに課されてくる課題ではなく、実際に僕らが生き、楽しみ、それ自体が僕らの生の完全性をつくる一部となってくれる。
僕らは、苦しみを含めて、含むからこそ、完全な存在なのだ!
そう言えるのは、ある程度苦しみが少ない時だけかもしれないが。
別に、言えなくてもいい。
言わなくてもいいから、歓びとして、自分の生への課題ではなくまさに生きることそのものとして、自分を癒す実際的な実践がはじまるのだ。
その時、僕らは「ヨギ」になる。