的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

ハートオブヨガ 僕らに接続されるヨガ

どんなに素晴らしい、洗練された文化でも、この世に素晴らしいものとして表れてくるには、ひとつのハードルを超えなければならない。

それは、「あなたが実際にやる」ということだ。

(別にあなたじゃなくてもいいのだが、実際に生きている人によって為される必要がある、ということ。)

 

文化は、人々の生活に実際に寄与してこそ素晴らしいといえるだろう。

ある文化があなたにとって素晴らしいものとなるには、何らかの仕方で、あなたにとっての(切実な)要求に接続する必要がある・・

 

 

という文脈で、ハートオブヨガを捉えてみたい。

 

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ハートオブヨガは、その哲学的背景を、「急進的非二元論 radical non-dual」と評されたりする。

というとなんだか難しそうだが、「何か他のものになろうとせず、ただの自分であることにやすらぎを見出す」ということだ。

二元的思想ーすぐに自分とは他の「理想的境地」を打ち立てて、それを目指そうとするおなじみの思考様式ーをとことん遠ざけていることから「急進的」と付いている(ここには、U.G.クリシュナムルティという人物の思想的影響がある)。

 

というわけで、先生-生徒、知っている人-知らない人、できる人-できない人といった分離、権力構造をできるだけ生まないような仕方でハートオブヨガは伝えられている。

だから、すごくやさしい印象があるし、実際にものすごくやさしい。

 

でも、僕らが生きている実際の生は、そんなに平坦でもないし、平等でもない。

端から生の全体を均一的に、非二元的に見渡せるほど、僕らの視点は安全のところにはいない。むしろ、「ああなりたい、こうなりたい」という欲が蔓延する、流動的な世界の中にいる。

 

学びが起こるときは、先生に頭の中を「乗っ取られる」ような気になるし、そうすることで既存の考えを刷新し、全面的な学びが可能になったりする。

肉体を持った僕らにとっては、やはり体調が悪いよりはよい方が好ましいし、もし悪ければ「よくなるように」努力するだろう。

そのような時、ハートオブヨガが避けようとしている、二元性が生じてしまうのではないか?

「今現にあること」と、「将来なりゆくもの」の間に二分化が生じてしまうのではないか?

 

ハートオブヨガは、実践的な手段を提供することによって、その二元性を乗り越えているようにみえる。

何かになろうとするその欲動、動き、不安定さが、まさ人々を実践に向かわせる動機になる。

人々は、痛みや苦しみ、あるいは欲望を感じるからこそ何らかの行動に駆り立てられる。

実践を始めるときには、それなりに決意が必要かもしれない。

「この人に教えてもらったことなら、やってみようかな」という信頼と共に、新しい習慣を取り入れるわけだから。

この時一瞬、二元性が生じるようにみえる。

ヨガをやっていなかった今までの自分と、これから始める新しい自分との間で。

 

しかし、一旦始まってしまえば、ヨガは間違いなく、歓びとして機能してくれる(そうでなければ、それはヨガではないだろう)。

そうなった時、ヨガは、やらなければならない課題ではなく、自分にとって好ましいから自然と行っている、他の普通の生活習慣と変わらなくなる

生きていることと別にある特別なものではなく、ただ生きることに組み込まれるのだ。

 

(自らのニーズに適切に合わせられた)ヨガは、努力感なく実際に行うことができる、現実的な手段だ。それを実際に行う、自分をケアする貴重な時間を確保する、と決心したまさにその時、すでに癒しが起きている、ともいえるだろう。

 

その時生は、心地よい方に向かって進む運動でありながら、同時にすでに完全に機能している完成品である。

新しいことを身につけたり、今までの自分ではない何かになろうとする時のような、大袈裟な努力感は消えていく。

問題になっている苦痛や欲望は、自分とは別のところに存立している、乗り越えるべき大きな山ではなく、今実際に自分が歩いているところのものになる。

 

こうして、流動的な生の中で、二元性は克服されつつあるものになる。

山道(登りでも下りでも、どっちでもいい)を歩く僕らにとって、山は僕らに課されてくる課題ではなく、実際に僕らが生き、楽しみ、それ自体が僕らの生の完全性をつくる一部となってくれる。

 

僕らは、苦しみを含めて、含むからこそ、完全な存在なのだ!

そう言えるのは、ある程度苦しみが少ない時だけかもしれないが。

別に、言えなくてもいい。

言わなくてもいいから、歓びとして、自分の生への課題ではなくまさに生きることそのものとして、自分を癒す実際的な実践がはじまるのだ。

その時、僕らは「ヨギ」になる。

存在肯定について

 

 電車の中に赤ん坊がいると、周りの大人たちが、全くの他人にも関わらず、赤ん坊に笑いかけることがある。赤ん坊たちは、存在しているだけで、絶大なる肯定のまなざしを向けられているようにみえる。

 

 自己が存在していることに対する肯定感。僕自身がそれを育む過程は、主に「できること」を通じてであった。今までできなかったことができるようになった時、たまたま人よりも得意でうまくできることがあった時、僕は自分の存在価値を感じ、嬉しい気持ちになっていた。「できること」とは、結果として目に見えるようなものだけでなく、「自分で決めた目標に向かって努力することができた」などの「頑張り」も含んでいる。いずれにせよ、何かが「できる」ことに依拠して、自己への肯定感を育んでいったわけだ。その意欲は、さまざまなことに挑戦し、また習得していく際の原動力になってくれる。

 

 しかし、自己肯定感が、「できる」ということに依拠している限り、一方で「できなければ自分はダメな人間だ」という反転がつきまとっている。条件付きの肯定は、条件が失われればなくなるのだ。実際、中学に入った時の僕はそうだった。今まで当たり前にできたことができなくなり(例えば短距離走で同級生に負けるようになった)、あるいは自分のできること(例えば真面目に勉強すること)が周囲から価値として認めてもらえなくなり、徐々に自己肯定感を失った。それまでに培った自己肯定感が、「できること」に依拠していたため、その支えを失った瞬間一気に崩れ落ちたのだ。

 

 僕自身が、その後少しずつ自分の尊厳を回復していったのは、武術や禅、ヨガといった身体を使った東洋的実践を通してであった。なぜこれらが機能したかというと、「できない」から「できる」へ、今よりもっと上達しなければ、などの観念から解放されたからだ。そして、自らを注意深く慈しむことによって、元から備えていた力を十全に発揮することの素晴らしさを知ったからだ。「自分には何も不足しておらず、ただあるがままを発揮すればよい」という衝撃の事実を、まさに身体を通して知った。僕の場合ヨガが決定的に作用したのは、先生や教室など特定の人間関係、場所に依存せず、自宅で毎日実践することによって実感を育むことができたからだった。 

 

 これらの実践によって見出す自己肯定感とは、何かができるようになることによる肯定感とは少し違った。心地よく呼吸をし、全身がくつろぐという体験は、(僕にとって)ほとんど努力を必要としなかった。つまり、ほとんど無条件の肯定であった。

 

 しかしながら、この「ほとんど」という副詞を外すことはできない。どんなに努力感のない実践であっても、それが「できている」こと、そしてそれによって得られるやすらぎは紛れもなく「できていること」に依拠しているからだ。事実、僕らがくつろいで呼吸できるということは、当たり前のようで奇跡だ。神秘的な話がしたいわけではなく、戦争や災害、病気などに煩わされることなく、快適な部屋の中で、静かに落ち着いて呼吸ができることなんて、奇跡のように貴重なことですよね、という話。現に、今述べただけでもたくさんの条件に支えられており、決して「無条件の肯定」だと胸を張ることはできない。

 

 「存在」それ自体は、何かができたりできなかったりする「能力」とは無関係に存在しているように見える。だから、能力的に何かができる、できないに関わらず、存在していることそのものに、絶大な肯定を与えてやることができてもいいような気がする。

しかし、残念ながら、僕らはそのような見方をしていない。どんな形の存在肯定も、単純に「ただ在る」ということだけに依拠しているわけではない。

 

 

 

赤ん坊に微笑みかける大人たちは、一体何に微笑みかけているというのか。「世界へようこそ!」という歓迎か。世界に降り立ったばかりの新人に、自分たちの世界を少しでもよく見せようとする見栄か。

あるいは、赤ん坊の「若さ」、「可能性」に微笑んでいるのかもしれない。彼らは現在の能力的にはほぼ何もできない。だが、これから世界の中であらゆることを為す可能性を秘めているという点において、大人たちは自然と肯定を向けたくなるのではないか。仮に赤ん坊のように無垢で、思うままに振る舞うような大人がいたとしても、赤ん坊に向けるようなまなざしを同様に向けることはないだろう。ということはこの場合も、「単に存在していること」のみに向けられた肯定感では決してないのだ。残酷ながら、年齢を重ねるごとにこの微笑みは向けてもらえなくなるし、能力の有無で判断される世界に飛び込んでいかざるをなくなる。

 

 ただし、このような非情の中で、存在肯定を見出していく術もある。希望も込めて、3つ挙げたい。

 ひとつは、自己に対するきめ細やかな気づきだ。生きている限り、「何もできない」ということは原理的にあり得ない。事情は様々あったにせよ、現に今まで生きてこれたということが、あらゆることを成し遂げてきた証拠だし、今もまさに何かをしつつ(できつつ)あるのだ。呼吸や生命活動はその端的な例だが、それができているという有難みを実感するだけでも、大きな幸福感は得られるものである(ただし、今できていることに気づくことができる、というひとつの能力の要請でもある)。

 ふたつめは、愛する人の存在。僕たちは、互いに与えあう愛によって、存在を肯定し合うことができる。理屈を超えて、互いの存在を必要とする人たちの関係。そんな関係を結べる人が数人いるだけで、世界の住み心地は全く異なるだろう。

 最後に、何かを美しいと思うこと。世界の中で、何かに美を見出すことは、自らの美しい心を発見することでもある。そして、世界の中でくつろげる場所の発見でもあるだろう。

 

 何者にも依存せず、ただ在るということによってのみ、肯定を見出すことは、自己に対しても他者や世界に対しても、そうできたものではない。しかし、存在の中に備わった美しさを見出させてくれるこれらの経験が、ひいては存在そのものへの肯定をほのめかしてくれることは、ある気がする。

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自然との関わり

自然が美しい、と言う時、

自然とのリアルな関わりの中で、辛苦も共にし、その上で美しさを垣間見ることと、

管理された自然を無害な立場から傍観者的に見て「美しい」と言うことは、

全く違う。

 

文明人は、圧倒的に後者が多くなる(「植物園」なんていうのもそう)。

 

前者のような生き方をしている場合、自然と触れ合うことが即生きることであるため、わざわざ「自然との触れ合い」などということを想定しない。

生きることに、あえて「自然との触れ合い」を付け加えなければならないほど、自然と隔離された文明の中を僕らは生きている。

 

でも、あえて「昔だったら」みたいな想定をする必要は必ずしもないと思う。

むしろ、今置かれている環境において、自分を取り巻くものとの関係において、関わり方を磨けばよいのだと思う。

深く関わろうとすればするほど、機械的なパターンの繰り返し、自分を安全圏に置いた傍観者的態度ではいられなくなる。

そこにおいて、自然がある。

そこに、身心の変容の可能性があり、学びがあり、生のイキイキとした感触がある。

 

観察という言葉について

世界を眺めたとき、そこに美しさが見えるだろうか。

 

もし見えないのなら、美しいと知覚することを妨げている何かが(自分の中に)あるのだ。

しかし、もっとよく見ると、

その(妨げになっている)「何か」すらも、世界の美しさの一部なのだ。

だから、自分の中にある妨げをきれいに取り除きましょう、ではなく、

その妨げすらも世界内出来事として、親しんであげましょう、と言いたい。

 

見る者と見られるものはひとつである。

 

「観察しよう」などという努力感が働いている時は、(←瞑想とかをやっている人に多い)

たいていその「観察しよう」としている自我が問題で、

(なぜならそこには観察から安心などを得ようとする自己愛的な欲があるから、)

その(安住しようとしている)自我こそを見てやるべきなのだ。

 

勝手に世界外に置いている「自我(仮)」を、世界内に置き直してやること、とも言える。

 

そうすると、世界から分離してその内容をよいとか悪いとか評価する「外側」なんてなかった、ということがわかる。

 

僕らがすることといえば、全存在をまっとうし、世界の中に溶け込んで行くこと、だろう。

観察とは、世界から離れて見ることではなく、世界そのものになっていくことなのだろう。

印象的な言葉たち

昨日、私は今日よりも照らされ方が少なかったわけではないし、今日、より多く照らされているわけでもない。なぜなら、もし昨日私が事をこの様に見ることができたなら、私は確かにそう見ただろうからである。(『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』)

 

なんだこのカッコいい言葉。

 

 

これを読んで、パッと連想した言葉がこちら。

 

わたしたちはいずれにしても悟っているんだけど、必ずしも想定しているような悟り方をしているわけじゃないというだけだ。(J.マシューズ『ただそのままでいるための超簡約指南』)

 

「わたしたちはいずれにしても悟っている」とは、何とも大胆に聞こえるけれど、

僕にとっては真実に聞こえる。

それともうひとつ、連想した言葉。

 

神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』)

 

「世界があること」そのものが、「照らし」であり、「神秘」である。

まさか、そんなものが「悟り」だなんて思ってもいないかもしれないけれど。

 

なりゆくこと、流れること、美

数回にわたって書いてきた『時間の終焉』(クリシュナムルティ/ボーム)のまとめ。

 

「今の自分ではない何かになろうとすることが、人類の苦しみの根源である。」哲人宗教家のJ.クリシュナムルティは、そう言い切る。それを、一般的命題として語ることには、いささか違和感もある。一般論として振りかざすことは、「何にもなろうとしていない状態」という新たな理想状態を作り出し、それができる人、できない人というお決まりの構造を再生産してしまうことにもなりかねない。しかし、実際に起きている現象を基に、そこにおいて「何かになろうとする」という心情が発現してくる端緒を捉えることは可能だろうし、それを避けるための方策を考えることも可能だろう。そのような仕方で、冒頭の命題について考えてみたい。

 

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ある少女の絵日記を見せてもらったことがある。最初の方のページに描かれた絵には、ある特徴があった。彼女の絵は、まず輪郭を描き、それから中を塗りつぶしていくという描き方だった。そのため、空白が多く、輪郭の中もただ色で埋め尽くしている、というような印象を受けた。その描き方は、彼女が自分で見た世界を表象するのに適した方法というよりは、「絵とはこういうもの」といったような先入観によるものだったと思う。

しかし、絵日記の最後の方のページになると、輪郭から描いて中を塗りつぶすような描き方から、躍動感があり、輪郭が区切られておらず、空白の少ない、目に見えないものの躍動も描写したような絵に変わってきていた。物や人の輪郭をまず区切ってしまうのではなく、それらから溢れるエネルギーをそのまま絵にしたような表現の仕方は、以前のものとは明らかに異なっていた。

 

この間、彼女を変化させたのが何なのかは、正確には分からない。母親の絵を真似したのかもしれないし、輪郭を引く以前の描き方では表現し切れないような体験を彼女自身がしたのかもしれない。いずれにせよ、少なからず「模倣」という要素は入っているだろう。人間に限らず、動物が成長していくときには、身近な大人を模倣することは欠かせない要素だ。この時模倣とは、「なりゆくべきもの」としての型の役割を果たすわけではない。「なりゆくべきもの」、あるいは「ならなければならないもの」としてのモデルが私たちに突き付けられてくるとき、私たちは安易に理想主義に陥る。掲げた理想状態と現実の自分との間に分離が生じ、(クリシュナムルティが主張しているように)苦しみや葛藤となる。だからこそ、模倣の際に用意されるモデルとは、模倣する人をある型にはめ込むのではなく、むしろ彼/彼女がすでに持ってしまっている先入観を解体する、その外に出ることを促すものとして作用すべきなのだ。そのようにモデルが機能するとき、模倣は束縛としてではなく、自由への導きとして作用するのである。

 

さて、彼女の一連の変化において、「美」はどこにあるのだろうか。端的に言えば、その変化全体が美しいのだと言ってみたい。先入観にとらわれながらもその中で必死に描いていた当初にも、先入観の壊れた変化の刹那にも、そしてその後に行った新しい描き方にも、それらすべてにおいて「美」が存在している。

しかし私たちは、目に見える結果(この場合は変化後に描かれた作品)だけを美しいとしてしまいがちだ。そこには、視覚を重視する私たちの文化の在り様が大きく関わっていると考えられる。

私たちが視覚的に現象をとらえるとき、そこには「像」として世界を固定する作用が少なからず働く。その視覚によって時間の流れを捉えると、(どれだけ細かく刻んだとしても、)時刻A→時刻B→時刻C・・・という点的な捉え方になる。このような仕方で彼女の成長を見たとき、状態A(輪郭を引いて描いていた当初)から状態B(躍動感のある変化後の描き方)への変化と見なし、望ましい変化と見なすからこそそれを称賛する、というような捉え方になる。言い換えれば、彼女への愛が条件付きのものになる。(あくまで評価する側にとって)好ましい変化を見せた限りにおいて、「美しい」などと評価することになる。この発想は、今「A」である人は「B」に向かって成長していくべきだ、「B」こそが目指すべき状態だ、などという理想主義を安易に生んでしまう。

 

このような時間の把握の仕方から、心理的に解放されることの重要性をクリシュナムルティは主張している。心理的に時間概念から解放されるとは何か。それは、自己や世界の現状を「A」と捉え、定義し、それを保持しようと躍起になったり、もしくはよりよい状態としての「B」を想定し、そこに向かって努力したりするようなあり方から解放されるということだ。時間を「A→B→C・・」と点的に捉えるあり方から、「→」だけになることとも言える。考えてみれば、「変化」や「成長」といった概念は、ある点からある点への移行と捉えるからこそ生じる概念だ。

ベクトル的に時間を捉えると、分割して取り出せるような瞬間が存在しないから、「○○であるもの」としてのAや、「○○になるべきもの」としてのBが存在しないことになる。その時、何かになろうとする心理的葛藤も止まる、とクリシュナムルティは主張しているのである。

 

瞬間を取り出して定義したりせず、不断の流れ、運動として時間を捉える。そのように捉えたとき、例の少女の成長は、成長の痕跡としての作品だけではなく、そのような変化が生じた彼女の生全体が美しいのだと評価することはできないだろうか。目に見えるものとしての作品は、私たちに「美」を知覚させ、実感できる形で「美」を顕在化させている。しかし、その作品以外の時間、状態、生は「美」でないのか、というと、私は迷いなくNoと言いたい。

 

「それは美しい」と言った瞬間、即「それ」と「それ以外」の二分化をもたらし、「美」と「美でないもの」の分離も生じさせてしまう。言葉とは本質的に、そういう性質を持っている。世界について語ろうとした時、決して語り切れない歯がゆさの理由のひとつだ。しかし、たえず現象を見つめ直し、語り直すことによって、言語の不完全さを補うことはできる。「美」に対しても、「それ(例えば絵画)が美しい」のだと心理的に限定、固定、定義せずに、あらゆるものに美を見出そうとする感度を持ち続けることは可能だろう。人の成長を見るとき、自らの生を見つめるときも、そのような感度を持っていたいものである。

 

この時の態度は、「見る」ことよりもむしろ、「聴く」ことに近い。傾聴、真摯に聴くこと、それが起こる時、私たちは現象を固定して名付けたりせず、むしろ現象に寄り添い続ける。瞬間を取り出して定義したりせず、絶え間ない変化に対して耳を開き続けるのである。現象を「聴く」ように、寄り添い続けた時、ある瞬間だけを特権的に評価せずに、その流れ全体を、不断の運動として美しいと知覚することができるのではないか。その時、今の状態から他の何にもなろうとせず、ただあるがままを肯定できるのではないだろうか。

 

心理的時間と、視覚、聴覚

書評『時間の終焉」(J.クリシュナムルティ/D.ボーム)③

心理的に時間から自由であるとはどういうことか?

 

それは(一面的には)、「私」をAだと定義し、それを保持しようとしたり、

AではないBになろうとしたりする心理的努力から解放されることである。

 

それは、時間を「ある時刻」→「ある時刻」と心理的にとらえるあり方から解放され、

「→」だけになると言い換えることもできる。

考えてみれば、「変化」や「成長」とは、ある点から点への移行ととらえるからこそ、生じる概念だ。

 

しかし時間をベクトル的にとらえた場合、分割して取り出せるような瞬間が存在しないから、「○○であるもの」としてのAや、「○○になるべきもの」としてのBが存在しないことになる(そのとき、心理的葛藤も止まる?)。

ただし、そのような世界把握をしたとき、果たしてしゃべれるのかという問題はある。

 

名付け、定義し、状態を記述するからこそ言葉は可能になっているだろう。

 

ここには、視覚が大きく関係していると思われる。

視覚によって世界を把握するとき、「像」として固定したものを知覚するという作用がどうしても働いてしまう。しかも、どんなに努力しても見ているのは「ちょっと過去」である。

 

一方で、聴覚的に世界を捉えたときには、固定した「像」をわが物にして知覚するというより、むしろ世界に寄り添っていく、自分の方を世界に添わせていくような知覚の仕方になる。

ベクトル的時間把握とは、この時の感覚に近いかもしれない。

 

世界の知覚像を、わが物として固定することなく、絶えず世界を参照しながら、連続的に把握していく。

 

子どもにとって親とは、「なりゆくべきもの」としてあるのではなく、自らが立っているベクトルの、数手先を暗示的に示しているにすぎない。

 

 

ただ、次のようなことも現実として考えなければならない。

私は時間の中に生きていないが、しかし面会時間は守らなければならないと誰かが言うとしたら、それを聞いた人は当惑してしまうのではないでしょうか?(第9章)

 

ここでも、技術的な領域と心理的な領域の区分がなされている。

生活に必要なルールは便宜上守るが、心理的領域まで浸食させない。

この区分は、現実がそうであるというより、今の社会において生きやすい区分の仕方を、まさしく便宜的に行うことを二人は提案しているのだろう。

 

すべての知識は時間である。

過去に蓄積され、未来への投影することができるという意味で。

(第1章「心理的な葛藤の根源」)

 

知識を、必要なときには使うが、それに縛られてはいない状態を、おそらく自由と呼ぶのである。