弱さ
破壊のたやすさ。
ほんとにちょっとしたことで揺らぎ得るということ。
しかも、揺らぎの要因は至る所に溢れており、むしろ安心していられるのは奇跡的だということ。
さまざまな要因に下支えされた「安心」が、
何かのおかげだなんて簡単には言えないし、
ましてや「ひとえに自分の○○のおかげ」などというのは、
とんでもない思い上がりだということ。
だからって「感謝」なんてしても、
「こんなときだけ感謝するな」って言われそうだけど(例えば、大地や空気なんかに)。
ハタ・ヨーガの自己愛的な性格と、世界への愛
カラダをえこひいき的に愛することと、
カラダへの愛から世界への愛へと広げていくことの違い。
「私だけは!」「このカラダだけは!」という仕方で現れてくる自己愛的なカラダへの愛は、偏愛だ。
アーサナを中心としたハタ・ヨーガの実践は、一見このような偏愛からスタートしているようにみえる。
実際に、あるところまではそうなのだ。
特に、現代のヨガクラスで、マットをひいてアーサナ練習をするとき、
明らかにそこには自他の区別があり、個人主義的な性格がある。
中には、「私は隣の人と比べて・・」などと個人にたまたま宿ったにすぎない性質の違いを比較して悩んだりする人もいる。
では、この自己愛的なハタ・ヨーガが、Sat Cit Anandaなどという言葉で示される、全面的な愛、局限されない広がりへと転じていくには?
よくある解釈として、アーサナを瞑想への準備と考えると、カラダへの愛は、カラダを(不快感や症状のない)透明なものとして存立させる営みといえる。
実際、僕らは(皮膚に包まれた個体としての)自己の存立に気を遣わなくてよいほど、世界(または世界にある人やもの)のことを愛することができる。
ニーチェ的に言えば、愛はおのれの力が満ちているときに溢れ出るものだ。
アーサナで力が満ちてこそ、瞑想において世界を観照することができる?
しかし、アーサナが単なる準備とは思えない。
アーサナがそれ自体、瞑想的である、というか瞑想そのものであるような仕方で練習がしたい。
世界の中にあるひとつの(他から隔てられた)カラダを、特権的に愛するわけではなく(しかし空腹時など、どうしてもこうなってしまうことはやはりある)、
アーサナを行うまさにその瞬間は、「カラダが世界」なのである。
僕らが何かと関係を取り結ぶとき、対象の知覚がある。
その対象は、対象として知覚されるがゆえ、他から区別されたものとして浮かび上がっている。
しかし、その区切りは、まさにその関係を結ぶために一時的にこしらえたものにすぎず、一度関係ができたら即解消してよいものなのだ。
何か「ひとつ」のものと関係を取り結ぶ(ダーラナ)。
その関係を発展させる(ディヤーナ)。
主客、対象とそれ以外のもの、などの区別が消え、ただそこにある(サマーディ)。
サンヤマと呼ばれるこのプロセスは、言語的に辿るとややこしいが、場合によっては一気に進む。
特に、あえて対象を選んで(限定して)心を向けるのではなく、
おのずからそこに心が向いてしまったようなとき、
○○三昧と言いたくなるような状態は比較的容易に訪れる。
ハタ・ヨーガにおけるアーサナとは、
どこに行ってもつきまとってくるこのカラダとの親密性を育むことであり、
それによって世界を愛する「準備」ができるのだが、
その準備がまさに「世界を愛する」ことにもなり得るのだ。
ヨガは「誰でもできる」のか
(前回の続き)
もしヨガが全人的なものであり得たとしても、
実際に僕がヨガを伝えるとき、
具現化するそのかたち、言語化するその言葉は、
目の前にいるあなた専用であり、決して全人的ではあり得ない。
全人的であることを志向しつつも、
目の前の人に向かって語りかけるときは、
決して普遍化などを目指さずに、
その1対1の関係を全うすればよいのだ、と思う。
グループレッスンであっても、1対多なのではなく、
1対1が多数あるだけだ。
こういう時の言葉の使い方って難しいよね。
誰でもヨガはできます、なんてことを言ってみても、
実際に「誰でもできるヨガ」を提示することはできない。
だからって、「誰でもヨガはできます」という言葉が嘘だというわけではない。
ひとつのことを直観しても、
それを示すためには、常に正確さに近づく不断の努力と、
やっとの想いで見つけた言葉も、次の瞬間には捨ててしまえるような潔さ(ある友人が言ってた好きな言葉)が大切なのだろう。
ハートオブヨガ、先人たちへの信頼
いのちに導かれて動く。
すると、自分があれこれ考えようと、有無を言わせないほどの強い必然性を感じられたりする。
一人称「私」を大きく超えた、大文字のいのちの力。
さて、ヨガにおける「アーサナ」はどうだろう。
どの程度動くかは、その時のいのちの状態によって、必然的に決定される。
心地よさと安定感が引き出される、丁度よいところ。
さらに、どのタイミングで動きだすかということも、いのちによって必然的に決定される。
すでに生き始めているいのちがあり、それが必要な時に呼吸するから。
というわけで、どんな形に向かって動くか、という動きの方向性だけ、
意識によって決めることになる。
そこに、(必然的とはいえない)人為的な操作が入るように思われる。
じゃあ、なんで僕はこの動きをするんですか?
なんでヨガのポーズって、こんな形なんですか?
端的に答えると、僕の先生がそう教えてくれたから、だ。
(他にいろいろやり方はあって、どれを選択するかは自由だったにも関わらず、)
僕はハートオブヨガの先生に出会い、学び、実践している。
先生たちに会っただけでなく、彼らのことが好きだし、信頼している。
なぜ彼らを好いて、信頼したかに理由などなく、ただ巡りあわせでそうなったのだ(いのちがそう望んだから?)。
彼らは生きる見本として、実践しつつ生きている。そして、彼らもまた、信頼できる先生に教わって、実践を始めたのだ。
実際に生きている者同士の、ありふれた人間関係。
好きな人、信頼している人に、自信を持って勧められたからやってみた、という単純な話。
互いの信頼感と、まさに生きつつある者たちによる絶えざる修正によって、実践は保たれている。
僕らは、人の愛し方など教わっていない。
だが、実際に生きることによって、おのずから人を愛し、まさにそのことによって愛を学ぶ。
僕らは気づいたら何かを好きになって、信頼している。
ハタ・ヨガの動きが、信頼に足るものかなんて、いくら起源を探ってもある程度のところまでしか分からない(でも興味はあるので、僕なりに探ってみようとは思う)。
僕がやっているアーサナの大元である、クリシュナマチャリア(写真)がどんな人だったか、文献などで間接的に知ることはできるとはいえ、憶測の域を出ない。
だから、実際に会った人と、その関係の中で学ぶしかない。
僕が、なぜ、あなたにこのアーサナをおススメするかというと、
あなたがここに来てくれて、僕と出会ってくれたから、としか言いようがない。
僕だって、たまたま先生たちに出会わなかったら、これを知らなかった。
解剖学的に万人向けの動きだとしても、僕らが出会うという奇跡がなければ、これを伝えることはできなかった。
そして、これを受け取って、信頼してくれるかどうかも、また僕の力ではどうしようもないことだ。
人が、ある習慣を継続できるかどうかは、
単にその習慣からの直接的な効果の大きさだけでなく、
それを教えてくれた人への信頼、場の雰囲気の好み、(例えば「伝統」の継承者になることへの)誇り、などなど、
さまざまな付随的要素によって決められる。
そもそもの大前提として、「教えてくれる人に出会う」という要素もある。
出会うという時点で、人生の回転がその実践に導いているのかもしれない。
そして、人は、時に意志や努力なしに何かを愛し、信頼する。
ヨガのアーサナの一見人工的な動きも、この奇跡のような巡りの中にある。
僕は幸運にも、ハートオブヨガに出会えたし、それによってまた新たな出会いもある(そのことによって他の潜在的な可能性を消している、という半面も持ちながら)。
「ヨガに出会わないような人生もまた完璧なのに、あなたはなぜヨガをするのですか?」
ティーチャートレーニングで生徒にこんなことを聞かれたマーク・ウィットウェルは、次のように答えた。
「あなたに会うためです。」
ヨガの動きは、一人の身体上の合理性だけでは説明しきれない。
完了する吐く息、志向する吸う息
母との会話を通して分かったこと。
「そのままでいい」は、「そのままでいろ」じゃない。
生きようとする欲動として、運動として、方向性として、「いま」が存在している。
だから、未来を志向することが、今のこれではなくあれになろうとすることが、
そのまま今の否定になるわけではない。
「こうなりたい」という志向性も含めて、持続としての今がある。
不動の瞬間の連続として時間があるのではなく、ただ持続があり、流れがあり、動きがある。
苦しみとしての今が存在しているとする。
そこには、もっとこうなりたい、改善したいとの欲動が備わっている。
あるいは、そのような運動すら生じてこず、ただひたすら、「過ぎていく」ことを待つ、耐える、ということだけがあったりする。
じっとして、ただ流れていくのを待つしかない、その間はどうすることもできない、受苦の時間。(風邪を引いて寝込んだ日、そんなことを思った。)
いずれにせよ、いのちは生きようとする。
死よりは生へ、苦よりは快へ向かおうとする。
不機能さ、不快感、そのような状態が生まれてきてしまうような関係性、
しかし、そんな中でも生きてきたという歴史があり、その証として、ここで呼吸している身体がある。
いくら否定しようとも、無視しようとも、生きてきてしまった、という動かせない証拠としてここにある。
どこかでバランスをとり、どこかに迷惑をかけ、どこかを痛めつけながら。
認めるとか、受け入れるとか言う前に、突き付けられてしまう。
あれこれ言っても、僕はこのように存在している(存在してきた、過去の半分?)。
吐く息で、ハーーッ、お疲れさま、よく生きてきた。
そして、この生は、さらに欲動をはらんで存在している。
それが、「未来の半分」として今ここにある。
吸い入れるこの呼吸は、意志せずともこれからも生きさせられる、未来へのひと押し、スイッチオン、だ。
どこに向かっているのか、何に動かされているのか、
ちっぽけな僕らの意識では推し量れない。
いのちの望むままに、、
現状を受容することと、もっとこうしたい、との欲動に従うこと。
相反するようで、反さない。
もっとも、こう「したい」の主体は、日常的な意味での「わたし」ではない。
いのちがいのちする、わたしの身心を通して。
(どういう訳かわからないけれど、)
わたしは今まで生きてきた。
そして、これからも生きてゆく。
吐く息の完了形と、
吸う息の志向性は、
端的にこのことを教えてくれる。
ポーズをとるのは誰か。
そういえば、インドでこんなことを言われた気がする。
「ポーズをとっているのは、わたしではない」
この時は、えらくスピリチュアルな言葉に聞こえた。
実際、この言葉の発言者は、おそらくヒンドゥー教徒で、「わたしではなく、シヴァがわたしにポーズをとらせている」とのことを言っていた。
でも、別に神を想定しなくても、たしかに「ポーズをとっているのは、わたしではない」なぁ、と感じることがある。
呼吸に導かれて、動く。
だから、動き(ポーズに至るカラダの動き)を始めるのは、わたしの意識的な努力ではない。
では、呼吸は「誰」が始めているというのか?
「わたしが」というよりは、「いのちが」と言った方がしっくりくる。
いのちという力によって、僕らは、否応なく呼吸させられている。
(ということは、僕らは存立の時点で、空気などの外的事物に依存せざるを得ない存在の仕方をしているわけだ。)
試しに息を止めてみると、数秒で無理がくる。
「わたし」の意志に関係なく、生きようとする欲動が突き動かしてくる。
「わたし」のすることは、とめどなく溢れるいのちの力に、明確な方向性を与えてやることだ。
そうすると、いのちは、迷いなくその力を(現世的に)発揮する。
現代のヨガクラスでは、講師の声が、その方向性になる。
だから、ある意味迷わない。
では、ヨガという実践がこの世に生まれた、原初的な段階においてはどうだったのか。
予め想定される「○○のポーズ」などがない実践において、人々はどんな形をとったのか。
別にスピリチュアルっぽく言わないにしても、
「わたし」という個人を越えた、大文字の「いのち」というような力に突き動かされるような感覚を、見出さざるを得ないのではないか。