的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

補助輪との友好な関係

頼りにはなっても、全面的には頼り切れないと悟った時から、自立が始まる。

まだ支えが必要な人に、「補助輪なんかに頼ってないで、早く自立しろ」と言うのは、ちょっと的外れだ。

補助輪の「補助輪性(いつかは取り外し、自らの足で歩む覚悟をしつつ付き合わなければならないという属性)」を思い出させるという意味では効果のある言動だが、

自立への恐怖、補助輪を使っていることへの罪悪感、引け目を駆り立てるだけになることも多い。

 

その補助輪に頼って歩むことが、今の自分の生を全うすることなら、引け目など感じずにとことんやればいいと思う。

それが、その時にできる最大限の努力だろう。

 

あらゆる支えから全面的に自立した人などいない。

この世に存在し、人「間」である限り、僕らはいろいろなものにお世話になる。

立派に建っているあのビルは、隣の小さな店を見下しているようにも見えるけれど、

どちらも同じくらい不安定で、儚く、ゆらぎのある大地の上に立っている。

どんなに偉そうなことを言っても、新鮮な空気、という一要素を奪ってしまうだけで、僕らの活動は簡単に停止してしまう。

僕らは世界の中に存在し、支えつ支えられつつで生きている。

あらゆるものに、一面的には頼り続ける。

肉体的にも、感情的にも、思想的にも。

 

そう思うと、確固たる「わたし」なんてないように思えて、

生に拠り所がなくなって、不安になるような気もする。

でも、それでも「ここ」に存立している存在がある(「わたし」と呼ぶならそう呼ぼう)。

(他のどこでもない「ここ」という)場所、存立する時に依拠する質料性としての肉体、その肉体がまとった形状、性質、性格、知覚の仕方・・

そこに、「唯一性(uniqueness)」があるように思える。

 

この唯一性が、ある特定の補助輪(本来的にこの「わたし」の生とは無関係にこの世に存在しているもの)に全面的に頼り続けることを不可能にする。

自分の唯一性を自覚した途端、あらゆる支えとの差異が、ズレが、明らかになる。

 

逆かもしれない。

頼りにしていた支え(他人、教え、方法論など)とのズレを認知した時、自分の「唯一性」が露わになる。

 

それは何か。

この人生で果たすべき使命のようなものか。

変えられない運命のようなものか。

移りゆく世界の中で、唯一動かない北極星のようなものか。

 

 

 

見つめるということ

いろいろな自分がいる。

中には、認めたくないようなヤツもいる。

そんなヤツは排除して、自分にとって都合のいい部分だけ育てたくなったりする。

 

でも、認めたくないようなまさにその部分が、実は自分の生命を成り立たせてくれていたりする。だから、しょうがないから、認めざるを得ない。

大手を広げて歓迎することは難しいけれど、

仕方ない、そこに居てもいいよ、それもオレなんだよね、ということくらいはできる。

 

強がり。演出。ある場面だけで通用するような言動や振る舞いのスタイル。

「全方位に開こうとしなくてもいい。自分が楽しく生きていればいいじゃん」と言ってみたりする。

僕らの生は、肉体を持つことで不可避的に限定を受けているが、しかしそれは自らを限定的に扱っていくことを正当化するものではない。

恐れに蓋をして楽しい気分になっているのと、全面的に楽しいのは違う。

無理に苦しいことに出向かなくてもいいとは思う。だけど、勝手に遭遇する。

そんな時、隠してたものが露わになる。そもそも、最初から隠せていない。

バレている。相手が自覚していなくても、いのちのレヴェルでは、通じてしまっている。

 

ある一時の実践が、劇的な方法が、積んできた過去を一掃し、清算してくれるわけじゃない。

だってずっとその体で生きてきて、その思考のパターンに頼って自分を守ってきたのだから。

ある時、ガタが来る。そろそろ、そのパターンでは苦しいよ、とお知らせが来たりする。

怖いけれど、変えようとする。

変えても、変えた先に、その新しさなりの苦しみがあったりする。

変えようとしても、苦しみはなくならない。

だから、全部観ようとする。ひとまず、現状確認。

こんな醜さも、美しさも、全部ひっくるめて「わたし」。

言い換えれば、「こんなゆたかさもあったのか。知らなかったよ。ごめんね。」

そのようにして、見つめてあげることが、とりもなおさず「変える」ことだったりする。見つめてあげれば、安心して、出ていくかもしれない。

逆説的な、変化。

変えようとするでもなく、見つめることによって、おのずと変化していく。

 

認めたくないけれど、どうやらこんな部分も自分の中にあった。

歓迎はできないけれど、感謝することくらいはできる。

やれやれ、あなたが今までわたしを守ってくれたんだね、と。

もう少し、お世話になるかもしれない。

もう要らないから、任務完了!お疲れさま!となるかもしれない。

 

志向するでもなく、変えようとするでもなく、見つめるとしよう。

 

 

いのちという〈コト〉

私のそもそもの原点は、昆虫が大好きな昆虫少年として野原で虫を追いながら、自然の美しさや、例えば蝶の一生での、それが芋虫(幼虫)から蝶(成虫)に変わっていくメタモルフォ―シス(変態)のすばらしさなどに感動したところにあります。(・・)

生命というのは、(細胞、分子、遺伝子のような)そういった〈モノ〉を指しているんじゃなくて、〈コト〉なのではないか、ということに次第に気づくようになったのです。(『福岡伸一、西田哲学を読む』)

 

生命とは、〈モノ〉ではなく〈コト〉である・・・

 

名詞的に、つまり他から隔たれた〈モノ〉としての「私」を想定し、

その「私」が何かをしたり、「他者」と関わったりする、という風に考えると、

常にそこには、〈主-客〉の分離がある。

「私」とは不動で、固体的なものとして存在し、それが何かしたり関係を築いたりする、というような錯覚が生まれる。

 

しかし、〈モノ〉としての私=人間の形をした一個の個体は、

紛れもなく、世界の中から生まれ、世界の一部であり、常に世界と入れ替わっている。

世界とは別に身体なるものがあって、それがある時世界に宿ったわけではない。

世界と身体は同じ生地で仕立てられている(メルロ=ポンティ)。

 

〈モノ〉が不動のものとしてあり、それが何かをするわけではない。

そうではなく、世界の中で起こる〈コト〉として、その〈コト〉の効果として、

「私」なるものが現れる(ようにみえる)、と考えてみたらどうだろう?

 

目の前の人と熱心に話すとき、それはふたつの〈モノ〉が何かしているというより、

二個の流動的な物体と、それを織りなす環境、空間が、一体となってひとつの〈コト〉を成しているといってもよいだろう。

 

ひとりの人が気持ちよく踊るとき、「人間の身体」というフォーマットがあり、

その定型が、動いたり変形したりするのではなく、

まさにその動き、変化こそが〈踊り〉であり、〈その人〉なのではないか。

 

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ヨガという営みも、そのように考えてみたい。

初めに人がいて、その人が「あるポーズ」に向かって動くわけではない。

生きようとするいのちの衝動があり、

より心地よい方に向かって動こうとする欲動があり、

これ以上行くと痛みが生まれるという兆候がある。

 

ヨガとは、おそらく、

その〈コト〉に参与し、寄り添い、いのちの望みと一体になっていくことだ。

 

その〈コト〉を、名付けて固定するのが大好きな、

僕らの愛すべき「thinking mind」が阻害したりする。

でも、それは悪者じゃない。

名付けてくれるおかげで、それを僕らが「歓び」などと感じることができるのだから。

 

だから、「名付ける心を止滅させる」のではなく、

いのちが運ぶ〈コト〉と一緒になっていけばいい。

まさに起きているその〈コト〉と、同じ方を向けるようなマインド、言語の使い方をしていけばいいのだと思う。

そのように僕は、「citta vritti nirodhah」(『ヨーガ・スートラ』1-2)を解釈している。

 

(急にマニアックな話でごめんなさい。)

 

 

何を願うのか

自分がすこやかでいたい。

家族がすこやかでいてほしい。

できれば、みんなが、全人類が、全生命が、すこやかでいてほしい。

 

そこにおいて、使えるものは使えばいい。

回りくどいよりは、すみやかなやり方がいいだろう。

複雑なよりは、たやすい方がいいだろう。

時には、道具の力を借りたり、権力に頼ったり、なんてこともあるかもしれない。

 

その時のその人に合ったやり方というのはあるし、

でもみんな「いのち」なんだから根本的には一緒だろう、という見方もある。

 

あるやり方で少し晴れた人が、他の人にお節介を焼きたくなることもあるだろう。

それを「ありがとう」と受け取る人もいるし、「私は私だから放っておいて!」という人もいる。

 

さて、僕はどうなりたいのだろうか。

 

Twitterでこんな言葉に出会った。

 

何者かになるためにではなく、決して何者にもならないために学ぶ。

 

いろんなところに「私」が宿る。

必死になって目の前の人の話を聴いているとき、「私」と「あなた」がいるんじゃなくて、その関係性こそがすべて「私」だったりする。

そんな時、ふだん思い込み、これが自分だと定義しているさまざまな性格、個性、肩書などは、気づかないうちに外れていたりする。

 

そうかと思えば、目の前で必死に話している人がいるのに、

「私」の方は全く隔離されて、断絶したところに留まっている時もある。

しょうもない自意識が出てきて、何かを守ろうとしたりする。

「私」を何者かに定義して、名付けて、そこに閉じ込める。

 

「いのち」は別に、(皮膚で覆われたこの)カラダだけに宿っているわけじゃない。

いろんなところに出張して、自由に動き回る。

宿った場所で、その都度、晴れやかに咲いていたい。

すこやかなBodyがあったとしても、それだけで晴れやかに咲けるわけじゃない。

皮膚に閉じ込められたひとりぼっちですこやかでも、そんなに楽しくない。

 

「私」は自由に飛びます。いろんなところに止まります。

その時、何ができるか?

 

過去に学んだあの言葉を、今朝出会ったあの体験を、わざわざ持ち出さなくてもいい。

見つめてみる。

何かしゃべってみる。

だまる。

おどる。

息をする。

 

そうやってたら、そのうちお腹がすく。

ちょっと我慢する。

仕方なく、動く。

自然が、だれかが、恵んでくれる。

ありがとうー!

僕もみんなのために、ちょっと頑張ってみるよ。

 

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この春から休学して、「何者でもなさ」を、少しだけやりやすくなります。

 

『ピダハン』

久々のブックレビュー。

今回は、アマゾンに住む少数民族、「ピダハン」についての科学ノンフィクション。

 

言語学者でありながら伝道師のアメリカ人ダニエルが、未知の文化、言語に飛び込み、

アマゾンで暮らす彼らの生活を明らかにしていく。

 

このピダハン、学者の中では「パーティーに投げ込まれた爆弾」と言われるほど衝撃を与えたらしい。

確かに、異質な点は多々見られる。

数、色、左右など、僕らが当たり前に使っている概念が、彼らには存在しない。

現象を一般的なカテゴリーで括ることを嫌い、直接見聞きしたことを生き生きと表現する言語を使う。

そして、みんなが当たり前のように「精霊」を見、話をする。

  

彼らに特徴的なのは、

「いま起きている生活に強烈なスポットライトが当てていること」、

「一人一人が過酷な環境の中で、自分の身を守り、みんなと協力し、生き抜いていく力がある。そしてそんな自分たちが大好き」ということ。

 

マラリアがある。

ゴキブリやタランチュラもウロウロしている。

原題のタイトルである「Don't sleep, there are snakes. 寝るなよ、ヘビがいるから」は、「おやすみ」の代わりに警告しあう言葉らしい。

そんな中でも、とびきり愉快に、笑顔を絶やさず生きているピダハンたち。

彼らには「心配」も「後悔」もないのだ。

 

そんな彼らを前に、宣教を迷い始めるダニエル。

行き着く先は・・・

 

伝道師ダニエルが、「なぜ私がここに来たか知っているか」と聞いたとき、

ピダハンのひとりは次のように答えた。

 

おまえがここに来たのは、ここが美しい土地だからだ。

水はきれいで、うまいものがある。ピダハンはいい人間だ。

 

気になった方はぜひ

 

 

ヨーガ・スートラ超簡約(講座用メモ)

*テキストには書かれていないこと

「真実はテキストの中にではなく、あなたの中にある。あなたが真実である」

 

したがって、読まなければならないテキストはないし、理解しなければならない哲学もない。だから、もしヨーガ・スートラに書かれていることを理解できなくても、あなたに責任はないし、それであなたの価値が下がるということもない。

ただし、今この瞬間の神秘しか存在していないということを、哲学的に理解することはできる。そしてその理解は、達成すべき目標があるかのように仕向けてくるさまざまな言動から、身を守ることに役立つかもしれない(ヨーガ・スートラの中にさえ、何か達成すべき目標があるかのように読めてしまう記述はいくつもある)。

 

*ヨーガ・スートラの最重要箇所:1-2~1-4

「ヨーガとは、自分の選んだひとつのものへマインドを向け、それを維持することである」(1-2)

「そうすれば、自分自身のほんとうの姿を知ることができる」(1-3)

「そうでなければ、私たちはただただ混乱するばかりである」(1-4)

 

第1章2節、ヨーガの定義は、長いこと、たくさんの訳者によって、「ヨーガとは心の作用の止滅すること」と訳されてきた。しかしその結果、この訳を真に受けた修行者の多くが、刺激を避け、感覚を楽しませるものを回避する方へ進むこととなった。

クリシュナマチャリアは、この訳を反転させ、「ヨーガとは、自分の選んだひとつのものへマインドを向け、それを維持することである」、そしてその結果「マインドの変化が少なくなる」のだと言い換えた。これなら誰でもできるし、いまここから始めることができる。ヨーガとは、対象からマインドを遠ざけ、刺激されないように努めることではなく、むしろ徹底的に対象に近づき、それとひとつになることなのだ。非人間的になっていくことではなく、徹底的に人間であることなのだ。

 

*練習について

練習について、ヨーガ・スートラでは必要最低限のことしか書かれていない。それは、身近に教えてくれる先生がいることを前提に書かれているからだ。だから、スートラに書かれていることを参照して練習にあくせくするより、あなたのことをよく知っている親しい先生とともに練習した方が、ずっとためになる。

 「長い期間、中断せず、熱心に練習すること」(1-14)

 

 

必然的に、長く続けるには、無理のない範囲で行う必要がある。自分をヨーガに合わせるのではなく、ヨーガを自分に合わせて練習する。そのためには、やはり先生とのよい関係が重要になる。

 

*能力について

ヨーガ・スートラには、超常的な能力の描写が結構な数出てくる。中には、信じがたいような能力まで描写されていたりする。それらは、ヨーガの長い歴史の中における、さまざまな人体実験の記録くらいに思っておけばよい(変わり者もいたんだろう)。ヨーガ・スートラに書かれている能力を身につけようと、ある対象(例えば北極星など)に集中することを、必死になって行わなくてもいい。ここで重要なことをひとつ。

 

 対象は、自分で選んだものでなければならない。(1-39)

 

 

というより、人は自発的に選んだものでなければ、長いこと集中することなどできない。隣の部屋で自分の子どもが泣いているのに、月への瞑想を続けることは(ふつうは)できない。だから、自分の心が赴いたところに注意を向け、そこにおいて親密な関係を築いていけばよい。それが、ヨーガだ。ヨーガとは、実践的な手段である。あなたが、いま、ここから実践できるものでなければ意味がない。

 

マーク・ウィットウェルはよく言う。

「Is there any burning question?」

(何か、燃え上がるような質問はありませんか?)

あるいは、UG.クリシュナムルティの質問。

「What do you really want?」(あなたがほんとうに欲しいものは何?)

 

もし、これらがあるのなら、それに取り組むことが、ヨーガになるだろう。もしないのなら・・?

ただ人生を楽しめばいい!

 

 

参考文献

・TKV. Desikachar ‘Yoga Sutra of Patanjali’, “The Heart of Yoga”

・Mark Whitwell ‘Hridaya Yoga Sutra’ “Yoga of Heart”

 

「異」との幸運な出会い

あらゆる限定を取り去って自由に振る舞ったり、

すでに与えられている生命のすばらしさを味わったり、

そんな体験をし、そのような仕方で生きていくことを導いてくれるような実践体系がある。

しかも、その実践における「技法」などの優越によって、権力構造を生み出すことなく。あらゆる人が楽しみ、しかもすぐに始められるものとして。

 

それはとてもすばらしいことだし、ありがたい。

 

でも、忘れないでおきたい。

 

「人」がやっているということを。

そして、「人」には一人一人の属性があり、癖があり、傾向があるということを。

 

ある体系には、おのずと似たような性質を帯びた人が集まる。

その共同体の中で、極力思い込みを廃して自由であろうとしても、無意識のうちに設けている限定がある。知らず知らずのうちに排除しているものがある。

似通っている人が集まる、ということの不幸な帰結。

みんなが似たような性質を纏っていて、その中で自由を探究しているがゆえに、その集団にとっての「突拍子もなさ」が暗黙のうちに消されていたりする。

(全身の自在さを探究していたはずが、「顔面」を排除していたことに気づかなった!など)

 

人間界に存在している以上、複数性を無視することはできない。

できるだけ全方位に開いた実践をしたいけれど、ほんとうにちょっとした「外部」に、全然想定していなかった性質があったりする。

そのような「異」なるものと出会うのは、歓びでもある。

 

大きな眼を持っておくことで、自説に閉じこもることなく、

未知のものに遭遇しても取り乱すことなく、

愉しんで道を歩みたい。