的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

置かれた自分、媒体としての自分

 

「あなたはありのままでいいんだよ」などと言われた時、抱きがちな疑問。

 

「じゃあ、なんにもしなくていいの?」と。

 

いやいや。

それは「自分」というものをとらえ違えている。

 

真空のような場所に、交流も変動もまったくしない、なんにもしないものを「ありのままの自己」として想定していないか?

 

そうではなく、僕らは世界の中にまず投げ出され、訳も分からず何かをし始め、生き始めてしまっているのである。

まずカラダがあって、それが変動したり世界と交流したりするのではなく、

変動や交流が起こる「場」こそがカラダなのである!

世界あっての自分であり、世界との交流あっての自分であり、変動あっての自分なのである。

 

だから、「何もしない」「どこにも置かれていない」ような「ありのままの自己」などというのは、単なる想像の産物であり、この世界のどこにも存在しない。

いくら「内なる平和」を目指そうと、外界との交流を絶つことなどできない。

(たとえ出家し、世間とかかわりを絶ったとしても!)

 

実際、カラダを緻密に見ていけば分かる。完璧な実体としてのカラダがあって、それが世界と交流しているのではない。

食べる物、飲むもの、吸う空気、腸内細菌などとの交流が常に起きており、それらなしでは一瞬たりとも存在できないのである!

人間の細胞の数より、人間の中にいる細菌の数の方が多いらしい。

ということは、「人間の中に細菌たちが住んでいる」のではなく、「細菌たちの上に人間が住み着いている」のである!

(では、「私が考える」というとき、一体「何」が考えているのか?)

 

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今日、ヨガのクラスでマントラ(お経のようなもの)を唱えていたときのこと。

 

最初の方は、「いかに自分のカラダをうまく使い、声をうまく出すか」ということに苦心していた。

 

だが、続けていくにつれ、だんだんと「自分が唱えている」という意識が薄らいできた。

世界が何かを表現したがっていて、その媒体としてたまたま僕のカラダが選ばれている、というような感覚だ。

 

そこにもはや、技法は必要ない。その時僕がやっていたのは、ただ世界に流れているエネルギーを、邪魔しないようにすることだけだ。

 

それでも、否応なく、僕のカラダを通して「個性」が顕在化する。

いわゆる「自我」がなくなっても、個性が消えてしまうわけではない(ちょっと安心)。

 

「媒体」に徹することができたとき、何とも言えず心地よかった。

とはいえ、この心地よさを維持しようとするのは、野暮なことだ。

この心地よさを再生可能なものにしようと躍起になるのも、野暮なことだ。

 

それと同様に、何かうまくいかないことがあったとき、世界が表現したがっていることの媒体でしかない僕らが、何とかしようとあくせくするのも、同じくらい野暮なことなんだろう。

 

ただ、世界の中に置かれて、自分に起きる交流や変動を楽しめばいい。

 

では、結局なんにもすることはできないのではないか?

いや、安心しろ、否応なく、何かしてしまっているのだから。

 

ん?じゃあ「こちらから」何かをする必要はないのかな。

 

あれれ、わりと考えが深まったと思ったのに、冒頭の問いに戻って来てしまった・・・

変動、交流、非・技法的カラダ

 

身体「技法」、身体「操法」、身体「術」・・・

これらの言葉からイメージされるのは、「いかにカラダを動かすか」に関する探究だということだ。

 

確かに、この視点からもたくさんのことを語ることができる。

ただし、これらの言葉が暗黙のうちに前提していることがある。

 

それは、「カラダがある」ということだ。

 

どういうこと?

 

もう少し言うと、「ここからここまでがカラダ」と言えるカラダがあり、効果的な運用法を「探究できる対象」としてのカラダがあり、技法を試し得る「媒体」としてのカラダがあるということだ。

 

ところが、この前提に立っているかぎり、見えてこない世界があるのではないか。

 

今日、僕が思い立って試したことは、いわば技法を失う技法であり、「カラダが適応するに任せる」ということだ。(僕にこの発想を与えてくれたのは、「アフォーダンス」という理論だ)

 

何かの技法を行使する媒体としての「カラダ」が存在すると見なすことをやめ、ただ、置かれた環境の中に佇んでみた。

言い換えれば、「環境」と「カラダ」の境目で起こる事を、成りゆくままに放っておいた。

 

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例えば、慣れない場所に飛び込み、緊張しているという状況。

こんな時「技法」的発想を持っていると、「ドキドキしているから、深呼吸して落ち着こう」などの手法を取りがちだ。(僕もそうだ)

言い換えれば、カラダと環境との間に境目を設け、主体としてのカラダにおいて「何をすべきか」考え始めてしまう。

 

しかし、僕らが何かをしようとしまいと、その場に置かれたその瞬間から、僕らのカラダは適応を始める。

梅干しを口に入れれば唾液が湧きだしてくるように、おのずとカラダは対応を始める。

まさに無常であり、一瞬たりとも同じ瞬間がない。

 

この変化を観察すればするほど、どこまでが自分のカラダか分からなくなる。

吸う空気、触るもの、口に入れるもの。

これらは僕らのカラダの内部に入り込んできて、カラダを変化させる。

というより、一体となってともに変化していく。もはやここに、主体も客体もない。

 

しかし、技法的にカラダを操作しようとすると、「固定化された状態」を想定しなければならなくなる。

「いまドキドキしているから○○しよう」と考えるまさにその時、「ドキドキしている自分」を固定化し、その上で方法論を組み立てようとしている。しかも、カラダを独立して扱おうとするので、カラダと環境の交流が絶たれる。

 

変動するカラダ、交流するカラダにとって、この働きかけは不自然だ。

「ドキドキしているから・・」と必死に考えれば考えるほど、ますます「ドキドキしたカラダ」が固定化し、しかも環境が介入し得ないものとして個別化していく。

 

カラダは、環境と相即なものであり、固定化も個別化もし得ないはずなのに。

 

 

カラダも環境も、ただ変化していくものであり、それらを無理に維持したり、いじったりするものではないのかもしれない。

そう思うと、これまで「わたし」だと思っていたカラダが急に遠くのものに見えた。

 

いや、むしろカラダも環境も、みんなが一体となって変動、交流する「わたしたち」と言ってもいいかもしれない。

そんなにぎやかさで生きるのは、たぶん結構楽しい。

ヨガで養われる柔軟さについて

今日、グループでのヨガコースを受けていて思ったこと。

 

通常、グループでヨガをすると、指導者の声に合わせて動いていく。呼吸の吸う、吐くのタイミングも、指導者の「吸って~」「吐いて~」に合わせて行われることが多い。

  

 

しかし、当然一人一人の呼吸の長さは異なり、日によっても異なるかもしれない。

一人一人に合ったヨガを重視するハートオブヨガのレッスンでは、一人一人が自分のペースで呼吸し、それに合わせて動くので、みんな動きがバラバラになる。

 

僕はこのマイペースさが好きだ。だから、みんなが一緒に動くグループクラスでも、勝手に自分のペースで動いていることが多い。

斜に構えているみたいで、これはこれで恥ずかしいんだけど。

 

今日の自分にとって、最も適切なアーサナを見つける。

そのためには、スティラ(安定、頑丈さ)とスッカ(快適さ、柔軟さ)を見つけることが大切だ。

それは、今日の自分に固有のものであり、他人と比べたり、昨日の自分と比べたりするものではない。

 

この考えに基づいていたため、僕は(頑なに)自分のペースを保っていた。

 

だけど、あれ・・・?

この頑なさは、「柔軟さ(スッカ)」に反していないか?

 

ヨガのアーサナの定義にもなっている「スティラとスッカ」は、アナンタヘビ(『ヨーガ・スートラ』の著者パタンジャリが人間に変身する前の姿)から来ているという。アナンタは、ヴィシュヌ神のベッドの役割をしていたため、「非常に頑丈かつ柔らか」でなければならなかった。この性質がイコール、スティラとスッカだ。

 

と、ふと今日の僕は、あえて指導者の声に合わせて呼吸をしてみた。「吸って」というインストラクションに合わせて吸い、「吐いて」に合わせて吐いた。

 

最初の方は、自分に合わない靴を履かされているようで違和感があった。

でも、同時にこんなことも思った。

 

もし「スッカ(柔軟さ)」がそこにあるなら、自分本来のペースから多少外れたところで呼吸しても、余裕を持って対応できるはずだ、と。

ここで言う「柔軟さ」とは、いわゆる開脚や前屈の柔軟性ではなく、ふかふかのベッドのような身心の柔軟さだ。どんな形のものが寝ても、優しく包み込んでしまうベッドのような柔軟さだ。

自分が守りたいペースがあっても、多少変動できる水のような柔軟さだ。 

 

実際、指導に従ってやり続けると、悪くなかった。

最初は違和感がある新品の靴も、履き慣れれば問題ないようなものだ。

 

でも、だからといって、明日も今日と同じようなできるとは限らない。

あくまで、今日の僕にとっては問題なく指導に合わせられた、ということに過ぎない。

 そしてこの記事は、今日という一日の記述にすぎない。

(こうして書いているうちに0時を回ってしまったので、もう昨日のことか)

 

“Set the boundary only right for today.”

「今日だけのために、その都度境界線をひこう。」

 

“Don’t put yourself certain form, find your sthira and sukha.”

「ある型に自分をはめるのではなく、自分のスティラとスッカを見つけよう。」

(J.ブラウン) 

 

 

明日の僕は、明日の僕によって決定されるしかない。

その楽しみは、明日にとっておくか。

 

実感のないここちよさ

 

何か優れたことを成し遂げようと、文字通り身を粉にして努力し、達成したとき。

この達成感は、たしかに格別だ。

(しかし、この「優れた」というのは、誰が決めたことなのだろう?)

ありありと感じられるようなものを、どうしても求めたがってしまう、僕らの性質とは何なのだろう?

 

しかし、この「ありありとした実感」を、僕らは過剰に要請しすぎかもしれない。

言い換えれば、僕らの意識が、常に「喜びたがり」、「幸せを噛みしめたが」っている。

 

この状態は、力を出そうとして思い切り力んでしまう筋肉に似ている。この過剰さは、苦しいし、ケガを引き起こすかもしれない。

ありありと筋肉の力感が感じられる、「実感のある力」は、実は拍子抜けするほど弱かったりする。

 

武術の達人たちは、何の変哲もなく、ひょいとやった動きでとんでもない力を出す(イメージが湧かない人は、「火事場の馬鹿力」というものを想像してみてほしい)。

 

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「実感なき力」は、驚くほど強く、しかもそれ特有の爽快感も付随している。

 

僕は、この爽快感に注目したい。

意識で噛みしめられるような強い実感ではなく、ありふれた、凡庸な、実感のなさ。

 

それは、普段は肌の表面をなでて通り抜けてしまうような、ある種の注意を払っていないと全くとらえられないような、しかも掴みにいこうとすると消えてしまうような、そんな性質だ。

 

 

 

下手をすると、強い実感がないと「生きている気がしない」ということにもなりかねない。それは、単にアタマが強欲なだけだ。

 

ちょっと全身で「感じる」モードになってみると、かすかに感じられる爽快感がある。

意外と、これこそ幸せでないか?

なんて思うのだ。

 

ハートオブヨガトレーニング名言集(あとからコメント付き)

2017年3月、J.ブラウン先生によるハートオブヨガのティーチャートレーニング。

そこで生まれたさまざまな名言。

 

体験とともに納得したものから、随時コメントを足していきます。

英語は急いでメモしたものなので、多少不正確かもしれません。

 

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「自分がヨガに感動し続けないと、ヨガは伝わらない。」

トレーニング開始直後に、参加者のどなたが言っていた言葉。

そうなんです。だからこそ、毎日の丁寧な練習が大事。 

 

“Do philosophy by your breath.”

「あなたの呼吸で、哲学しよう。」

哲学をする。それも、頭だけの営みではなく、全身で、呼吸で、いのち全体で。

「世界とは何か」「私とは何か」「幸せとは何か」・・

これらの問いを、一生かけて、まさに生きることによって学ぶのが、ヨガということだろうか。

 

“Yoga happens in mutual affection.”

「ヨガは相互の愛情の中に起こる。」

 

“Yoga is practice of intimacy.”

「ヨガは、親密さの練習だ。」

これ、言われた時はよくわからなかった。一年くらい経って、ようやく少し理解できた。

ヨガは、ひとりの身体上で効果を証明できるようなものではなく、実際に会った人たちの信頼関係によって行われるのだ、と。(詳しくはこちら

 

 

“Give yourself permission, You can make your own rule.”

「自分自身を許して、自分だけのルールを作ればいい。」

 

 “Set the boundary only right for today.”

「今日だけのために、その都度境界線をひこう。」

 

毎日の練習が大事とはいっても、機械的に繰り返したり、苦しいのに無理して同じことをやっても仕方ない。今日の自分のためだけにやればいいんだ!と思うと幾分気がラク。

“Don’t put yourself certain form, find your sthira and sukha.”

「ある型に自分をはめるのではなく、自分のスティラとスッカを見つけよう。」

 

“You can try as long as you can enjoy it.” 

「それを楽しめる範囲なら、チャレンジしてみよう。」

 

“Do we make a horse open the legs? We must be natural as we are.”

 「馬に開脚させるか?私たちは、自分にとって自然であるべきだ。」

 

To smile when you fall is much more important than to stand with your one leg.”

「片足で立てることより、転んだ時笑えることの方がずっと大事。」

立ち木のポーズ(ヴリクシャアーサナ、片足で立つポーズ)の際に、Jが言う言葉。

そう、ヨガの練習は「実際的な」ものなんだ。 

 

 

“I have many struggles, I can do hand stand though.”

「僕は人生でいっぱい問題を抱えている。ハンドスタンドはできるけれど。」

アーサナ(ポーズ)の完成度が、幸福には結びつかないという、Jによる実感を持った体験。クラスでハンドスタンドを披露し、喝采を浴びても、惨めな気持ちで歩く帰り道 にこれに気づいたという。

 

Swami “How do you feel?” 「どんな風に感じる?」

J “I don’t know at all!” 「全然わかんないよ!」

Swami “Good.” 「それでいい。」

 インドを旅する若き日のJが、出会ったスワミに退屈な練習ばかりやらされて、思わず一言。しかし、「わかんない!」という自覚が最も大切なのかもしれない。ソクラテスのように。

 

 

 

“We don’t need enlightenment any more. We need intimacy.”

「悟りはもういらない。親密さが必要だ。」

 

 

“Stop thinking that we do physical exercise. I don’t need anything but Arm Flow, do I ?”

「肉体的なエクササイズをしているという考えをやめよう。アームフロー以外、もう何もいらないんじゃない?」

 

 

“Don’t sit like a yogi, sit like a normal person.”

「ヨギみたいに座らないで、普通の人みたいに座ろう。」

 これ、めっちゃ好き~。

そんなにきれいに坐らなくていいんですよ、と。

 

“Yoga Sutra of Patanjali is not prescription but a description.”

「ヨーガ・スートラに書かれていることは、私たちに課された処方箋ではなく、単なる描写である。」

 そう、スートラを読んで、ヤマニヤマなどを「実践」しようとすると苦しい。

練習していれば自然とそうなっていく、ヨギたちはこんな傾向だったらしい、と思えば気がラク。

  

“Breath cannot be controlled. We can only regulate it.”

「呼吸は決して「コントロール」されない。私たちができるのは、それに関わることだけである。」

 プラクティスの主役は「いのち」である。私たちは、ただそれに参加するだけ。

(参考:「いのちという〈コト〉」)

 

 

“Right alignment doesn’t exist. Right Down Dog doesn’t. Only ‘your’ Down Dog does.”

「正しいアライメントは存在しない。正しいダウンドッグも存在しない。ただ、『あなたのダウンドッグ』があるだけである。」

 

 Undoing of dysfunction is result of yoga practice.

「プラクティスの結果として、あらゆる機能不全がほどかれていく。」

ヨガの いわゆる「タパス(行)」的な要素。

 

“Yoga is methodless method.”

「ヨガは、方法論なき方法だ。」(J.クリシュナムルティ

 

 “We cannot do meditation, we only create the condition.”

 「瞑想そのものは練習できない。条件を整えることができるだけである。」

 

 

“Body knows you more than your mind.  Body knows what to do.”

「カラダは心よりもあなたのことをよく知っている。カラダは何をすべきか知っている。」

 

“Too much science may lose magic.”

「科学のしすぎは魔法を失わせるかもしれない。」

 

 “Be honest to what you desire. Be selfish, and feel free.”

「自分の求めるものに対して正直でいよう。自分勝手に、自由に。」

 U.G.クリシュナムルティ曰く、「もしあなたが明確に欲しいものを知っているなら、それを阻むものは世界にひとつもない。If you know what you really want, no power in this world can stop you from having that.」

 

“Tell people around you ‘isn’t it cool?’ with passion. We don’t need to persuade them.”

「情熱を持って、周りの人に、『これってすごくない?』って言ってみよう。説得する必要はない。」

 まずは、身近な人から。僕は母から始めました。

 

“Non-obsessive! Just inhale from above, and exhale from below!”

「神経質になりすぎないで!ただ上から吸って、下から吐けばいい!」

 学ぶことが多くて頭が混乱したとき、戻ってくるべきシンプルさ。

 

“Do your practice. See what happens.”

「あなたのプラクティスをして、何が起こるか見てみよう。」

 一回の練習でわからなくてもいいから、ヨガとともに生きてみよう。

一生かけて、わかるかもしれない。

 

“Practice of yoga is participation in wonder of Life.”

「ヨガのプラクティスは、生命の神秘に参与することだ。」

 この言葉に、すべてが凝縮されているといっても過言ではない。

ヨーガ・スートラ1-2の「ヨーガの定義」にも通じる言葉。

(ヨーガ・スートラについて)

 

境界としてのヨガマットの機能

 

現代にヨガをする人にとって、欠かせないアイテムとなりつつあるヨガマット。

 

しかし、それが一般的になったのは、いつ頃なんだろう。

 

伝統的なインドの行者たちが僕らのようなゴム製のマットを使っているとは考えにくい・・

 

いろいろ調べたけど、正確な時期は特定できなかった。

 

おそらく、起源としては、多彩なポーズをとる際に、足が滑りにくい、座ったとき、寝そべったときに気持ちいい、などの役割があったんだろう。

 

それに加えて、意図的かどうかに関わらず、以下のような機能も付加されているようにも思える。

 

 

社会生活を送りながらヨガをする多くの現代人にとって、ヨガマットは、「ヨガとそうでないものの境界」として機能している。

 

ちょっと大げさにいうと、ヨガマットの上は、「聖なる空間」。

ヨガマットを広げ、その上に乗った瞬間、普段の雑多な世間からいったん離れる。

「マットの上の私=ヨガモード」いう人も多いんじゃないか。

 

自然と一体化しようとする営みであるヨガにおいて、人工物であるヨガマットが介入していることは不純と言えば不純だ。

できれば、まるっきり人工物ではなく、土に還るような環境にやさしい素材を使ったマットを使いたい。

(つい最近、ふたりの方からこのことを指摘された。恥ずかしながら、僕自身がマットを購入した際は、このことを考えられていなかった。)

 

とは言え、人工物であることのメリットもある。

 

ヨガマットは、人工物であるがゆえに、(少なくともマクロの視点では、)昨日も今日も明日も、変わらずにそこに存在していてくれる。

一方で日常を生きる「私」は、一時たりとも同じではない、自然物。

時には、マットに立つ際に、気持ちがすさんでいることもある。

 

そんな時に、いつも変わらずに存在してくれているマットのおかげで、いつもと同じ場所に還ってくるような気分になる。

アリストテレスの言葉を使うなら、「不動の動者」。いつも変わらず、僕を導いてくれる存在。

 

ちなみに僕のマットには、ハートオブヨガのシニアティーチャーであるJ先生のサインとメッセージが書いてある。マットに立つたび、新鮮に、ヨガの力を思い出させてくれる、貴重なリマインダーとして僕は利用している。

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「境界線」としての役割は、「私」と「私でない人」の間にも働いている。

 

このことが特に顕著なのが、大人数でのヨガクラス。

 

花見でシートを敷き、自分の場所を確保するように、ヨガのクラスでも、マットを敷いて「自分の居場所」を確保しようとする。

 

この「境界」を、自分ではそんなに意識していなくても、他人が敷いたマット(=他人の居場所)に立ち入るのは、気が引けるはず。

 

無意識的に、ヨガのクラスの空間に、いくつも境界線が引かれていく。

 

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もしかしたら、ヨガマットの色やデザインによって、「個性」を発揮しようとする人もいるかもしれない。それもひとつの機能だ。 

 

 

ところで、もともとヨガは「結合」を意味する単語だ。

 

ヨガの目的には、「ヨガとそうでない(と思っている)もの」の結合、「自己と他者」の結合も含まれているはずだ。

 

ならば、究極的には、無意識のうちに引いているあらゆる境界を取り去りたい。

 

結合、Union、Oneness・・・

 

これらの言葉を用いて表現される世界観が、真に現実のものとなるならば、それはヨガマットがいらなくなった時、とすら言えるかもしれない。

 

「今はヨガの時間」、「今はヨガじゃない時間」。

「ここは私の場所」、「そこはあの人の場所」。

 

そんな区別が問題にならないくらい、「ヨガ」が実践できたらいいんだけど、なかなかそうもいかない。

 

現実問題として、これらの区別を設けないと、実践が進まない。

 

とは言え、ヨガマットを使うという手段、もっと言うならあらゆるポーズや呼吸法のテクニックなど、、

これらに頼っているかぎりは、常に境界線を引き続けている行為になる。

 

だから、手放しでは喜べないんだよね。

いつかは捨てる、補助輪をつけながら走っているような感じ。

 

ウィトゲンシュタインはこう言った。

 

登り切ったハシゴは、投げ捨てなければいけない。

 

ヨガマットも、ポーズも、呼吸法も、すべて投げ捨ててしまえる日が、僕に来るだろうか。

来たら来たでよし。

来なくても、諸々の手段に頼る中で、常にその手段から離れようとする運動のなかで、そこにヨガが生じている。

 

 

残酷な色、もしくは残酷な人間(色覚異常の僕が見る世界)

 

色覚異常の僕は、見えている世界の色を、○○色という名前に変換する作業が苦手だ。

また、世界の中から○○色を探すのも苦手だ。

 

仮に、僕がこれらのことにチャレンジすると、何が起きるか。ちょっと劇場的に書いてみる。

 

やんちゃな色たち 

 

「これ何色?」

この問いが発せられた瞬間、

 

見えている世界の色たちは、「俺たちは○○色なんていう型にはまらないぞ!」と、猛烈に主張してくる。

結局僕は、彼ら(色たち)を、なんと呼んだらいいのか分からなくなる。

 

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中には、わずかだが、「○○色」という型のど真ん中に、おとなしく、従順に座り込んでくる色もある。

僕はそれを、「典型的な赤」などと呼びたくなる。

だいたいが人工物だ。作られた色。

 

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僕が「典型的な赤」と呼びたくなるのはこんな色だ。

 

 

一方、僕にとって、それ以外のほとんどの色は、○○色という型にはめこまれることに反発する。

血気盛んな、反抗期のような色たち。

絶対に手に負えないやんちゃな子どもを相手にしているような気分になる。

特に、木、草などの自然物についている色たちの反発は、とんでもない!

 

彼らは、一瞬たりとも、落ち着いて「○○色」の中に座り込んでくれない。

ちょっと日が当たったり、風が吹いたりするだけで、すぐにフラーっとどこかに行ってしまう。

落ち着いて、「○○色」という名前を与えてあげようとした瞬間、もう違うような気がしてしまう。

必死になって名前を探す僕に、色たちは全く取り合ってくれない。

 

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こういう花たちも、なかなか分かりにくく、僕を困らせる色をしている。

ちなみに、僕が着ているこのシャツは、「典型的な黄色」と呼びたくなる色だ。

 

 

 

反対に、世界から「○○色」のものを探すという試みをしてみる。

 

その瞬間、色たちは「見つかるもんか!」と一斉にかくれんぼをし始めてしまう。

「○○色、出てこい!」と呼び掛けてみても、「俺たちはそんな名前じゃない!」と、そっぽを向かれてしまう。

やっぱり、色たちは僕に優しくない。

 

世界か自分の方か。

 

こうやってみると、色たちは、僕にとって、ずいぶんと意地悪で、残酷だ。

いや、たぶん、本当は僕たちのほうが残酷なんだ。

 

各々の色が持つ多彩な個性の数々を捨象し、ある名前の中に押し込もうとすることのほうがきっと、暴力的で、残酷なんだと思う。

 

ある人が、僕の色覚異常を肯定的に捉えてくれたおかげで、僕も自分の目から見える「やんちゃな色たちの世界」を、幾分か肯定的に見られるようになってきた。

 

僕が困るのをよそに、好き勝手、個性を発揮しまくっている自由な色たちは、なんだか愛おしい。

逆に、おとなしく「○○色」であることを認めてくる従順な色たちは、なんだか、人間に支配されているみたいで、ちょっとかわいそうだ。

「ごめんね、人間がこんな色を塗っちゃって」と言いたくなる。

 

世界は、本来人間の手に負えないほど自由で、力強くて、残酷で、優しい。

 

こんなことを書いていたら、なんだかこんな歌詞を連想した。

 

汚れちゃったのはどっちだ。世界か自分の方か。いずれにせよ、その瞳は開けるべきなんだよ。それが全て、気が狂うほど、まともな日常。(「ギルド」BUMP OF CHICKEN