体和日記 Tai-wa-nikki

茨城県つくばを拠点に、体和塾(カラダを和ませ、カラダで世界と和する塾)という活動をしています。ハートオブヨガ、甲野式身体術、哲学などから考えたこと、感じたことを、赴くままに。

何はともあれ、楽しく生きたい。

陣痛ー新しい思想が生まれる際の。

(これはウィトゲンシュタインの言葉をちょっといじった。)

 

何かが大きく変わろうとしているとき、文字通り身体的な「痛み」に似た感覚を味わうことがある。

それに耐えうるだけの、心身の柔軟さが必要だ。

心のマタニティヨガ、とでも言うべきか。

(うまいこと言っているようで言えていない感じが恥ずかしいけど、なぜかこの比喩が浮かんできたのだから、しょうがない。)

 

残念ながら、僕は間違っていた。

そう思うとき、今まで自分が頼っていた補助輪、あるいは吸っていた空気、立っていた地表。

それらに、もはや頼ることも、吸うことも、立つこともできないと知ったとき、何とも言えず苦しい。

 

でも、そこで「苦しみたがる」自分がいるのは、まだその古いものにすがろうとしている証拠だ。

苦しみに浸ろうとするのは、たいていの場合、そうしたいからであり、まだ古い自分にすがりたいからであり、生まれ変わる潔さが持てないからだ。

 

苦しんでいること、悩んでいることがなんだか格好良く見えるという、変に屈折した価値観を、僕らは持っている。

それ自体は別に悪いことではないけど、このことに浸りすぎると、自傷癖に似た厄介な性格が顔を出してくる。よくよく考えれば大したことでもないのに、それに悩んだようなしぐさをするのは、リストカットにも近い行為だ。

 

間違っていたかに思える過去も、結局のところ頑張って生きた自分の生の結果に過ぎないのだ。

とりあえず「イイね」を押して、また前に進もう。

 

 

楽しく生きるためには、練習も、反省もいらない。というより、不可能だ。

その都度やりたいことに対して正直になることで十分であり、それ以外にできることはない。

 

その「楽しさ」は、自分だけが知っていればそれでよいのであり、他に何も意味付けはいらない。

 

文章を書いているこの瞬間にも、僕の生は流れている。

その僕の生命が喜ばないなら、こうして僕が書くことに何の意味があるだろうか。

 

たった今の僕にとって書くことは、生きることとイコールであり、何か他の生のために書いているのではない。

生きている僕の命の総体が、いま、書くという行為を通して発現している。

 

ある時は ヨガという行為を通して発現し、またある時は人と話すということで発現する。

 

こうして表れる「生」は、ダンスであり、進む方向がない。

このダンスが楽しそうに見える人は、一緒に踊ってください。

 

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この記事を書いた今夜は、なぜか眠れなかった。

こういう夜が、最近たまにある。

 

思考が泳ぎたがっているというか、なかなかじっとしてくれないような感じだ。

そんな時は、思う存分泳がせてあげると、ちゃんと疲れて、安心して眠れる。

だから、深夜にこうして書いている。

 

明日は午前からヨガの仕事があるけど、こればっかりは仕方ない。

 

むしろ、自分に正直であることを伝えたいのに、たったいまの自分が自分に対して不誠実だったら、自己矛盾も甚だしい。

 

 

正直に生きようとすることが、時に人と衝突し、傷つけることもあると痛感した。

これからも、人に迷惑をかけることは避けられないのかもしれない。

 

でも、何かをイヤだと思うことはあっても、心から憎むことはない。

今日イヤだと言ったことでも、一緒に笑える日がいつか来るかもしれない。

そんな僕と出会ってくれてありがとう。

 

ハートオブヨガトレーニング名言集

今年3月に受けた、ハートオブヨガのティーチャートレーニング。

1か月半くらい経過した今、改めてノートを振り返り、心に響く言葉たちを書き連ねてみました。

 

いろいろコメントしたいところですが、今回はひとまず羅列するだけにしてみます。

発言者は、だいたいが講師のJ.ブラウン先生。

 

英語は急いでメモしたものなので、多少不正確かもしれません。

 

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「自分がヨガに感動し続けないと、ヨガは伝わらない。」

 

“Do philosophy by your breath.”

「あなたの呼吸で、哲学しよう。」

 

“Yoga happens in mutual affection.”

「ヨガは相互の愛情の中に起こる。」

 

“Set the boundary only right for today.”

「今日だけのために、その都度境界線をひこう。」

 

“It is much more important to smile even if you fall than to stand with your one leg.”

「片足で立てることより、転んでも笑えることの方がずっと大事。」

 

“I have many struggles, I can do hand stand though.”

「僕は人生でいっぱい問題を抱えている。ハンドスタンドはできるけれど。」

 

Swami “How do you feel?” 「どんな風に感じる?」

J “I don’t know at all!” 「全然わかんないよ!」

Swami “Good.” 「それでいい。」

 

“Give yourself permission, You make your own rule.”

「自分自身を許そう。自分だけのルールを作ればいい。」

 

“We don’t need enlightenment any more. We need intimacy.”

「悟りはもういらない。親密さが必要だ。」

 

“Stop thinking that we do physical exercise. I don’t need anything but Arm Flow, do I ?”

「肉体的なエクササイズをしているという考えをやめよう。アームフロー以外、もう何もいらないんじゃない?」

 

“Don’t sit like a yogi, sit like a normal person.”

「ヨギみたいに座らないで、普通の人みたいに座ろう。」

 

“Yoga Sutra of Patanjali is not prescription but a description.”

「ヨガ・スートラに書かれていることは、課された処方箋ではなく、単なる描写である。」

 

“Yoga is practice of intimacy.”

「ヨガは、親密さの練習だ。」

 

“Breath cannot be controlled. We can only regulate it.”

「呼吸は決して「コントロール」されない。私たちができるのは、それに関わることだけである。」

 

“You can try as long as you can enjoy it.” 

「それを楽しめる範囲なら、チャレンジしてみよう。」

 

“Do we make a horse open the legs? We must be natural as we are.”

 「馬に開脚させるか?私たちは、自分にとって自然であるべきだ。」

 

“Right alignment doesn’t exist. Right Down Dog doesn’t. Only ‘your’ Down Dog does.”

「正しいアライメントは存在しない。正しいダウンドッグも存在しない。ただ、『あなたのダウンドッグ』があるだけである。」

 

Undoing of dysfunction is result of yoga practice.

「プラクティスの結果として、あらゆる機能不全がほどかれていく。」

 

“Yoga is methodless method.”

「ヨガは、方法論なき方法だ。」(J.クリシュナムルティ

 

“We cannot do meditation, we only create the condition.”

 「瞑想そのものは練習できない。条件を整えることができるだけである。」

 

“Body knows you more than your mind.”

「カラダは心よりもあなたのことをよく知っている。」

 

“Too much science may lose magic.”

「科学のしすぎは魔法を失わせるかもしれない。」

 

“Don’t put yourself certain form, find your sthira and sukha.”

「ある型に自分をはめるのではなく、自分のスティラとスッカを見つけよう。」

 

“Be honest to what you desire. Be selfish, and feel free.”

「自分の求めるものに対して正直でいよう。自分勝手に、自由に。」

 

“Tell people around you ‘isn’t it cool?’ with passion. We don’t need to persuade.”

「情熱を持って、周りの人に、『これってすごくない?』って言ってみよう。説得する必要はない。」

 

“Non-obsessive! Just inhale from above, and exhale from below!”

「神経質になりすぎないで!ただ上から吸って、下から吐けばいい!」

 

“Do your practice. See what happens.”

「あなたのプラクティスをして、何が起こるか見てみよう。」

 

“Heart of yoga is participation in wonder of Life.”

「ハートオブヨガのプラクティスは、生命の神秘に参与することだ。」

 

境界としてのヨガマットの機能

 

現代にヨガをする人にとって、欠かせないアイテムとなりつつあるヨガマット。

 

しかし、それが一般的になったのは、いつ頃なんだろう。

 

伝統的なインドの行者たちが僕らのようなゴム製のマットを使っているとは考えにくい・・

 

いろいろ調べたけど、正確な時期は特定できなかった。

 

おそらく、起源としては、多彩なポーズをとる際に、足が滑りにくい、座ったとき、寝そべったときに気持ちいい、などの役割があったんだろう。

 

それに加えて、意図的かどうかに関わらず、以下のような機能も付加されているようにも思える。

 

ヨガとそうでないものの境界

社会生活を送りながらヨガをする多くの現代人にとって、ヨガマットは、「ヨガとそうでないものの境界」として機能している。

 

ちょっと大げさにいうと、ヨガマットの上は、「聖なる空間」。

ヨガマットを広げ、その上に乗った瞬間、普段の雑多な世間からいったん離れる。

「マットの上の私=ヨガモード」いう人も多いんじゃないか。

 

自然と一体化しようとする営みであるヨガにおいて、人工物であるヨガマットが介入していることは不純と言えば不純だ。

できれば、まるっきり人工物ではなく、土に還るような環境にやさしい素材を使ったマットを使いたい。

(つい最近、ふたりの方からこのことを指摘された。恥ずかしながら、僕自身がマットを購入した際は、このことを考えられていなかった。)

 

とは言え、人工物であることのメリットもある。

 

ヨガマットは、人工物であるがゆえに、(少なくともマクロの視点では、)昨日も今日も明日も、変わらずにそこに存在していてくれる。

一方で日常を生きる「私」は、一時たりとも同じではない、自然物。

時には、マットに立つ際に、気持ちがすさんでいることもある。

 

そんな時に、いつも変わらずに存在してくれているマットのおかげで、いつもと同じ場所に還ってくるような気分になる。

アリストテレスの言葉を使うなら、「不動の動者」。いつも変わらず、僕を導いてくれる存在。

 

ちなみに僕のマットには、ハートオブヨガのシニアティーチャーであるJ先生のサインとメッセージが書いてある。マットに立つたび、新鮮に、ヨガの力を思い出させてくれる、貴重なリマインダーとして僕は利用している。

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 自己と他者の境界

「境界線」としての役割は、「私」と「私でない人」の間にも働いている。

 

このことが特に顕著なのが、大人数でのヨガクラス。

 

花見でシートを敷き、自分の場所を確保するように、ヨガのクラスでも、マットを敷いて「自分の居場所」を確保しようとする。

 

この「境界」を、自分ではそんなに意識していなくても、他人が敷いたマット(=他人の居場所)に立ち入るのは、気が引けるはず。

 

無意識的に、ヨガのクラスの空間に、いくつも境界線が引かれていく。

 

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もしかしたら、ヨガマットの色やデザインによって、「個性」を発揮しようとする人もいるかもしれない。それもひとつの機能だ。 

 

達成され得ないOneness

 

ところで、もともとヨガは「結合」を意味する単語だ。

 

ヨガの目的には、「ヨガとそうでない(と思っている)もの」の結合、「自己と他者」の結合も含まれているはずだ。

 

ならば、究極的には、無意識のうちに引いているあらゆる境界を取り去りたい。

 

結合、Union、Oneness・・・

 

これらの言葉を用いて表現される世界観が、真に現実のものとなるならば、それはヨガマットがいらなくなった時、とすら言えるかもしれない。

 

「今はヨガの時間」、「今はヨガじゃない時間」。

「ここは私の場所」、「そこはあの人の場所」。

 

そんな区別が問題にならないくらい、「ヨガ」が実践できたらいいんだけど、なかなかそうもいかない。

 

現実問題として、これらの区別を設けないと、実践が進まない。

 

とは言え、ヨガマットを使うという手段、もっと言うならあらゆるポーズや呼吸法のテクニックなど、、

これらに頼っているかぎりは、常に境界線を引き続けている行為になる。

 

だから、手放しでは喜べないんだよね。

いつかは捨てる、補助輪をつけながら走っているような感じ。

 

ウィトゲンシュタインはこう言った。

 

登り切ったハシゴは、投げ捨てなければいけない。

 

ヨガマットも、ポーズも、呼吸法も、すべて投げ捨ててしまえる日が、僕に来るだろうか。

来たら来たでよし。

来なくても、諸々の手段に頼る中で、常にその手段から離れようとする運動のなかで、そこにヨガが生じている。

 

 

残酷な色、もしくは残酷な人間(色覚異常の僕が見る世界)

 

色覚異常の僕は、見えている世界の色を、○○色という名前に変換する作業が苦手だ。

また、世界の中から○○色を探すのも苦手だ。

 

仮に、僕がこれらのことにチャレンジすると、何が起きるか。ちょっと劇場的に書いてみる。

 

やんちゃな色たち 

 

「これ何色?」

この問いが発せられた瞬間、

 

見えている世界の色たちは、「俺たちは○○色なんていう型にはまらないぞ!」と、猛烈に主張してくる。

結局僕は、彼ら(色たち)を、なんと呼んだらいいのか分からなくなる。

 

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中には、わずかだが、「○○色」という型のど真ん中に、おとなしく、従順に座り込んでくる色もある。

僕はそれを、「典型的な赤」などと呼びたくなる。

だいたいが人工物だ。作られた色。

 

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僕が「典型的な赤」と呼びたくなるのはこんな色だ。

 

 

一方、僕にとって、それ以外のほとんどの色は、○○色という型にはめこまれることに反発する。

血気盛んな、反抗期のような色たち。

絶対に手に負えないやんちゃな子どもを相手にしているような気分になる。

特に、木、草などの自然物についている色たちの反発は、とんでもない!

 

彼らは、一瞬たりとも、落ち着いて「○○色」の中に座り込んでくれない。

ちょっと日が当たったり、風が吹いたりするだけで、すぐにフラーっとどこかに行ってしまう。

落ち着いて、「○○色」という名前を与えてあげようとした瞬間、もう違うような気がしてしまう。

必死になって名前を探す僕に、色たちは全く取り合ってくれない。

 

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こういう花たちも、なかなか分かりにくく、僕を困らせる色をしている。

ちなみに、僕が着ているこのシャツは、「典型的な黄色」と呼びたくなる色だ。

 

 

 

反対に、世界から「○○色」のものを探すという試みをしてみる。

 

その瞬間、色たちは「見つかるもんか!」と一斉にかくれんぼをし始めてしまう。

「○○色、出てこい!」と呼び掛けてみても、「俺たちはそんな名前じゃない!」と、そっぽを向かれてしまう。

やっぱり、色たちは僕に優しくない。

 

世界か自分の方か。

 

こうやってみると、色たちは、僕にとって、ずいぶんと意地悪で、残酷だ。

いや、たぶん、本当は僕たちのほうが残酷なんだ。

 

各々の色が持つ多彩な個性の数々を捨象し、ある名前の中に押し込もうとすることのほうがきっと、暴力的で、残酷なんだと思う。

 

ある人が、僕の色覚異常を肯定的に捉えてくれたおかげで、僕も自分の目から見える「やんちゃな色たちの世界」を、幾分か肯定的に見られるようになってきた。

 

僕が困るのをよそに、好き勝手、個性を発揮しまくっている自由な色たちは、なんだか愛おしい。

逆に、おとなしく「○○色」であることを認めてくる従順な色たちは、なんだか、人間に支配されているみたいで、ちょっとかわいそうだ。

「ごめんね、人間がこんな色を塗っちゃって」と言いたくなる。

 

世界は、本来人間の手に負えないほど自由で、力強くて、残酷で、優しい。

 

こんなことを書いていたら、なんだかこんな歌詞を連想した。

 

汚れちゃったのはどっちだ。世界か自分の方か。いずれにせよ、その瞳は開けるべきなんだよ。それが全て、気が狂うほど、まともな日常。(「ギルド」BUMP OF CHICKEN

 

色覚異常の僕が困る8のこと

 

実は僕、色覚異常なんです。

前回このことを公表し、それなりに反響がありました。

 

具体的に、どんな場面で困るか、その例を挙げていきます。

色覚異常の人がみんなそう、ってわけではありません。あくまで、僕の経験から。

 

ちなみに、僕が異常を自覚したのは、たぶん中学生くらいです。両親は僕が生まれたときから知っていたわけですし、中学生以前にも僕に教えてくれていたような気がしますが、人と見え方が違うことを僕自身がちゃんと自覚したのはたぶんそのくらい。

それまでは、「なんか違う気がするな~」くらいでした。

 

①お絵かき、ぬり絵

最も困る年代は、たぶん幼稚園から小学校低学年くらい。色鉛筆とかクレヨンで、「○色で書いてー」という要望は、大の苦手だった。というより、「なんでみんな簡単にできるんだ?」と思っていた。

 

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②植物のスケッチ

小学校でよくある「アサガオの観察」など。これ、本当に難しかった!

「ほんとうにこんな風に見えた?」って先生に聞かれたときは、「ああ、なんか間違えたんだな」と思っていた。

 

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ちゃんと、「きれいだな」とは思う。 

 

③サッカーのユニフォーム、ビブス

高校まで、人生のほとんどを捧げていたサッカーの中でも、たまにこの問題は起きた。

今でも覚えているのが、高校の時のある練習試合。

 

僕らがえんじで、相手がピンク。見分けにくい、ってことで、僕らがアウェー用の白に着替えた。

でも、僕からすると、えんじとピンクは全く別の色。そして、ピンクと白は、とっても見分けにくい。

「元に戻して!」と思ったけど、そうするとみんなが困るので、この日は我慢した。

 

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色覚異常は、「見分けの能力が低い」っていうより、「見分けの基準がズレている」んだと思う。

 

 ④焼肉

赤系と茶色系の見分けが難しい僕にとって、焼肉の焼き加減は大問題。

処世術としては、不器用なふりをして誰かに焼いてもらう。

肉だけのBBQ

「これ、もう食べていい?」何回も聞くけど、辛抱づよく教えてください。

 

⑤紅葉がきれいに見えない。

日本人としては、なかなか痛い。緑の葉っぱと赤い葉っぱの差があまりないので、紅葉のきれいさはなかなか分からない。イチョウくらい突き抜けて目立ってくれると、分かるんだけど。

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そうそう、こういうとき。ちょっと遠くの山を指して、「紅葉きれいだねー」と言う人。「どこのことをきれいだと言ってるんだろう??」となる。

 

ちなみに、桜はきれいに見えます。

 

 ⑥「緑色のお皿取って」

バイト先で言われたこと。こういう何気なさが、けっこうキツイ。特に、緑とか地味な色だとね。。

 

⑦「あのピンクの服の子がさー」

こういう会話もしかり。ごめん、そういう記憶の仕方をしないんだよ。

 

⑧女の子「私きのう髪染めたんだ~」

う、、ってなる。もう少し明るくしてくれりゃ気づくのに。

 

 

いかがでしょうか。

 

ちょっと同情する??笑

 

まあ、たまに困ります。

 

でも、日常の大方は問題ないです。信号も、ちゃんと見えます。

 

それに、悪いことばっかりでもない。次回は、ちょっと得したことについて、書きたいと思います。

僕、実は○○なんです。

 

いきなり何のカミングアウトだよ、って感じでしょうか。

 

まぁ、そんなに深刻にならずに受け止めてくださいな。

実際、そんなに深刻なことではないですから。

 

実は僕、先天的に色覚異常なんです。

 

そんなに珍しいことではありません。男性の20人に1人がそうらしいです。

以前は小学校で全員検査をしていたそうですが、2003年から廃止されてしまったようです。

だから、特に1993年以降に生まれた方は、一度チェックしてみたほうがいいかもしれません。

(参考サイトはこちら

 

緑系、青系、赤系に分かれるらしく、僕の場合は全部なんですね。

先天的な色覚異常は、隔世遺伝します。特に男の人に多く表れます。

だから、僕の孫の代に男の子が生まれたら、その子も高確率で色覚異常になるようです。

 

僕の場合はというと、祖父がふたりとも色覚異常なので、生まれた時点でもう逃れられない運命だったようです。笑

 

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 沖縄にいる祖父と、シーサーつくったとき。

 

「異常」のとらえ方

 

ごく親しい人を除いて、あまり公表していませんでしたが、今回公表する決意をしたのは、色覚異常を持って生まれてきたことを、ものすごく肯定的にとらえてくれる人に出会ったからです。

「なにそれ、面白いじゃん!」と。

 

以前の僕は、そんなに深刻な問題でもないけど、困るときは困るよなぁ、くらいの認識でした。

 

でも、よくよく考えると、僕の人間形成において、良くも悪くもかなり影響を及ぼしているのかも、と思えてきました。それに、僕から見える景色が人と違うということは、それ自体でかなり面白く、追求する価値があるんじゃないか、と思うようになってきました。

 

色覚異常であることで、困る事、逆に得すること、知ってもらいたいことなど、今後できるだけ記事にしていきたいと思います。

 

それにしても、「異常」っていう言葉になると、なんだか大変なことのように聞こえるよなあ・・・

 

通「常」とは「異」なるって言えば、そんなに大したことじゃない気がするんだけど。

なぜか「いじょう」という響きになった途端、仰々しい雰囲気になる。

 

それでも、以前に使われていたという「色盲」や「色覚障害」よりはマシだ。

(少なくとも、「盲」ではない!色は見えている。色の識別が、通常とはちょっと違う、っていうだけです。)

 

ところで、20人にひとりだからしょっちゅう出会ってもおかしくないはずなのに、「私は色覚異常です」っていう人に僕は出会ったことがない。

隠しているのか、自分でも気づいていないのか、そんなに大した問題じゃない、と思っているのか。

 

この際なので、もし心当たりがある方がいらっしゃったら、こっそり教えてくれると嬉しいです。

 

「ヨガ」という概念を楽しんでしまうとき。

何を楽しんでいるのか?

 

Are you enjoying by the pose itself? Or by “doing” the pose?

 

あなたはポーズそのものによって歓びを得ているか?

それとも、ポーズを「すること」によってか?

 

 

ハートオブヨガのティーチャートレーニングにて、ちょっと哲学チックなこんな問いかけ。

通訳さんも、訳すの大変だっただろうな。

 

何気ない一言だったけど、僕の中で引っかかっていた。

このことで何を言おうとしていたのか?

 

ヨガの練習において、ポーズをとる。

 

例えば、チャトランガというポーズがある。

腕立て伏せに似た、多少腕力に負荷がかかるポーズだ。

 

ジェイは繰り返し言った。

 

Even if it is challenging for you, you can try as long as you can enjoy it.

負荷がかかるものでも、それを楽しめる限りチャレンジしていいよ。

 

 

でも、このenjoyが、何によるenjoyなのか。

僕らは、ここを問う必要があるのではないか。

 

その「楽しんでるよ」は・・

 

多少の負荷なら、筋肉にも心地よい。

でも、「頑張ること」がクセとして身についている僕らは、ついつい無理をしがちだ。

チャトランガで、明らかに苦しそうなのに腕の筋肉を頑張らせ続けてしまう人もいる。

 

だが、それすらも「楽しんでるよ!」と言えてしまう人がいるのだ。

 

その「楽しんでいる」は、本当に「チャトランガそのもの」を楽しんでいるのか?

 

例えば、腕に負荷をかけ、「負荷に耐える自分」を楽しんでいたり、「頑張れる自分」を(自他へ)アピールすることを楽しんでいたり、「このポーズによってこんな効果が得られる!」という効果に酔っていたり。

 

つまり、ポーズそれ自体を楽しんでいるのではなく、ポーズを「すること」によっていろいろ付いてくる副産物を楽しんでいる。言い換えれば、「ポーズをとっている」のではなく、むしろポーズに付随する概念を遂行しているに過ぎない。

 

別に、それらが悪いわけじゃない。

前にも書いたけど、不純な動機が混じっていても、楽しめるならそれでいいのだ。

 

概念に傾くと、カラダから離れる

ただ、注意しておきたいこともある。

 

ポーズそのものではなく、それに付随する概念を楽しんでいるとき、今ここにあるカラダと向き合っているようで、実は向き合っていない、ということが起きてくる。

 

「ポーズに付随する効果」に酔いながらポーズをとっているとき、(しかもそれを「楽しんでいる」とき、)注意はどこに向いているか。「効果を得た自分」という架空の存在に向いていたりするのだ。

 

そのまま練習していると、ちょっと危ない。今ここにあるカラダが、向き合う対象ではなく、「効果を得る」というストーリーを遂行するための道具になってしまう。リアルタイムで訴えかけてくるカラダの声が聴けないので、ケガの危険もある。

 

というわけで、ヨガの練習においては、「何を楽しんでいるのか?」という問いが重要になる。

もし、ポーズそのものではなく、何かとってつけた「意味」や「概念」(効果やカッコよさなど)を楽しんでいるとしたら、ちょっと注意が必要だ。

 

 

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チャトランガwith 8歳の少女

もしかしたらこのときの僕は、ポーズそのものより、「子どもをくっつけてポーズをとっているという面白さ」や「撮られるであろう写真の面白さ」を楽しんでしまっていたかもしれない。事実、ちょっと腕に負担をかけすぎた気がする。