的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

ハートオブヨガトレーニング名言集(あとからコメント付き)

2017年3月、J.ブラウン先生によるハートオブヨガのティーチャートレーニング。

そこで生まれたさまざまな名言。

 

体験とともに納得したものから、随時コメントを足していきます。

英語は急いでメモしたものなので、多少不正確かもしれません。

 

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「自分がヨガに感動し続けないと、ヨガは伝わらない。」

トレーニング開始直後に、参加者のどなたが言っていた言葉。

そうなんです。だからこそ、毎日の丁寧な練習が大事。 

 

“Do philosophy by your breath.”

「あなたの呼吸で、哲学しよう。」

哲学をする。それも、頭だけの営みではなく、全身で、呼吸で、いのち全体で。

「世界とは何か」「私とは何か」「幸せとは何か」・・

これらの問いを、一生かけて、まさに生きることによって学ぶのが、ヨガということだろうか。

 

“Yoga happens in mutual affection.”

「ヨガは相互の愛情の中に起こる。」

 

“Yoga is practice of intimacy.”

「ヨガは、親密さの練習だ。」

これ、言われた時はよくわからなかった。一年くらい経って、ようやく少し理解できた。

ヨガは、ひとりの身体上で効果を証明できるようなものではなく、実際に会った人たちの信頼関係によって行われるのだ、と。(詳しくはこちら

 

 

“Give yourself permission, You can make your own rule.”

「自分自身を許して、自分だけのルールを作ればいい。」

 

 “Set the boundary only right for today.”

「今日だけのために、その都度境界線をひこう。」

 

毎日の練習が大事とはいっても、機械的に繰り返したり、苦しいのに無理して同じことをやっても仕方ない。今日の自分のためだけにやればいいんだ!と思うと幾分気がラク。

“Don’t put yourself certain form, find your sthira and sukha.”

「ある型に自分をはめるのではなく、自分のスティラとスッカを見つけよう。」

 

“You can try as long as you can enjoy it.” 

「それを楽しめる範囲なら、チャレンジしてみよう。」

 

“Do we make a horse open the legs? We must be natural as we are.”

 「馬に開脚させるか?私たちは、自分にとって自然であるべきだ。」

 

To smile when you fall is much more important than to stand with your one leg.”

「片足で立てることより、転んだ時笑えることの方がずっと大事。」

立ち木のポーズ(ヴリクシャアーサナ、片足で立つポーズ)の際に、Jが言う言葉。

そう、ヨガの練習は「実際的な」ものなんだ。 

 

 

“I have many struggles, I can do hand stand though.”

「僕は人生でいっぱい問題を抱えている。ハンドスタンドはできるけれど。」

アーサナ(ポーズ)の完成度が、幸福には結びつかないという、Jによる実感を持った体験。クラスでハンドスタンドを披露し、喝采を浴びても、惨めな気持ちで歩く帰り道 にこれに気づいたという。

 

Swami “How do you feel?” 「どんな風に感じる?」

J “I don’t know at all!” 「全然わかんないよ!」

Swami “Good.” 「それでいい。」

 インドを旅する若き日のJが、出会ったスワミに退屈な練習ばかりやらされて、思わず一言。しかし、「わかんない!」という自覚が最も大切なのかもしれない。ソクラテスのように。

 

 

 

“We don’t need enlightenment any more. We need intimacy.”

「悟りはもういらない。親密さが必要だ。」

 

 

“Stop thinking that we do physical exercise. I don’t need anything but Arm Flow, do I ?”

「肉体的なエクササイズをしているという考えをやめよう。アームフロー以外、もう何もいらないんじゃない?」

 

 

“Don’t sit like a yogi, sit like a normal person.”

「ヨギみたいに座らないで、普通の人みたいに座ろう。」

 これ、めっちゃ好き~。

そんなにきれいに坐らなくていいんですよ、と。

 

“Yoga Sutra of Patanjali is not prescription but a description.”

「ヨーガ・スートラに書かれていることは、私たちに課された処方箋ではなく、単なる描写である。」

 そう、スートラを読んで、ヤマニヤマなどを「実践」しようとすると苦しい。

練習していれば自然とそうなっていく、ヨギたちはこんな傾向だったらしい、と思えば気がラク。

  

“Breath cannot be controlled. We can only regulate it.”

「呼吸は決して「コントロール」されない。私たちができるのは、それに関わることだけである。」

 プラクティスの主役は「いのち」である。私たちは、ただそれに参加するだけ。

(参考:「いのちという〈コト〉」)

 

 

“Right alignment doesn’t exist. Right Down Dog doesn’t. Only ‘your’ Down Dog does.”

「正しいアライメントは存在しない。正しいダウンドッグも存在しない。ただ、『あなたのダウンドッグ』があるだけである。」

 

 Undoing of dysfunction is result of yoga practice.

「プラクティスの結果として、あらゆる機能不全がほどかれていく。」

ヨガの いわゆる「タパス(行)」的な要素。

 

“Yoga is methodless method.”

「ヨガは、方法論なき方法だ。」(J.クリシュナムルティ

 

 “We cannot do meditation, we only create the condition.”

 「瞑想そのものは練習できない。条件を整えることができるだけである。」

 

 

“Body knows you more than your mind.  Body knows what to do.”

「カラダは心よりもあなたのことをよく知っている。カラダは何をすべきか知っている。」

 

“Too much science may lose magic.”

「科学のしすぎは魔法を失わせるかもしれない。」

 

 “Be honest to what you desire. Be selfish, and feel free.”

「自分の求めるものに対して正直でいよう。自分勝手に、自由に。」

 U.G.クリシュナムルティ曰く、「もしあなたが明確に欲しいものを知っているなら、それを阻むものは世界にひとつもない。If you know what you really want, no power in this world can stop you from having that.」

 

“Tell people around you ‘isn’t it cool?’ with passion. We don’t need to persuade them.”

「情熱を持って、周りの人に、『これってすごくない?』って言ってみよう。説得する必要はない。」

 まずは、身近な人から。僕は母から始めました。

 

“Non-obsessive! Just inhale from above, and exhale from below!”

「神経質になりすぎないで!ただ上から吸って、下から吐けばいい!」

 学ぶことが多くて頭が混乱したとき、戻ってくるべきシンプルさ。

 

“Do your practice. See what happens.”

「あなたのプラクティスをして、何が起こるか見てみよう。」

 一回の練習でわからなくてもいいから、ヨガとともに生きてみよう。

一生かけて、わかるかもしれない。

 

“Practice of yoga is participation in wonder of Life.”

「ヨガのプラクティスは、生命の神秘に参与することだ。」

 この言葉に、すべてが凝縮されているといっても過言ではない。

ヨーガ・スートラ1-2の「ヨーガの定義」にも通じる言葉。

(ヨーガ・スートラについて)

 

境界としてのヨガマットの機能

 

現代にヨガをする人にとって、欠かせないアイテムとなりつつあるヨガマット。

 

しかし、それが一般的になったのは、いつ頃なんだろう。

 

伝統的なインドの行者たちが僕らのようなゴム製のマットを使っているとは考えにくい・・

 

いろいろ調べたけど、正確な時期は特定できなかった。

 

おそらく、起源としては、多彩なポーズをとる際に、足が滑りにくい、座ったとき、寝そべったときに気持ちいい、などの役割があったんだろう。

 

それに加えて、意図的かどうかに関わらず、以下のような機能も付加されているようにも思える。

 

 

社会生活を送りながらヨガをする多くの現代人にとって、ヨガマットは、「ヨガとそうでないものの境界」として機能している。

 

ちょっと大げさにいうと、ヨガマットの上は、「聖なる空間」。

ヨガマットを広げ、その上に乗った瞬間、普段の雑多な世間からいったん離れる。

「マットの上の私=ヨガモード」いう人も多いんじゃないか。

 

自然と一体化しようとする営みであるヨガにおいて、人工物であるヨガマットが介入していることは不純と言えば不純だ。

できれば、まるっきり人工物ではなく、土に還るような環境にやさしい素材を使ったマットを使いたい。

(つい最近、ふたりの方からこのことを指摘された。恥ずかしながら、僕自身がマットを購入した際は、このことを考えられていなかった。)

 

とは言え、人工物であることのメリットもある。

 

ヨガマットは、人工物であるがゆえに、(少なくともマクロの視点では、)昨日も今日も明日も、変わらずにそこに存在していてくれる。

一方で日常を生きる「私」は、一時たりとも同じではない、自然物。

時には、マットに立つ際に、気持ちがすさんでいることもある。

 

そんな時に、いつも変わらずに存在してくれているマットのおかげで、いつもと同じ場所に還ってくるような気分になる。

アリストテレスの言葉を使うなら、「不動の動者」。いつも変わらず、僕を導いてくれる存在。

 

ちなみに僕のマットには、ハートオブヨガのシニアティーチャーであるJ先生のサインとメッセージが書いてある。マットに立つたび、新鮮に、ヨガの力を思い出させてくれる、貴重なリマインダーとして僕は利用している。

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「境界線」としての役割は、「私」と「私でない人」の間にも働いている。

 

このことが特に顕著なのが、大人数でのヨガクラス。

 

花見でシートを敷き、自分の場所を確保するように、ヨガのクラスでも、マットを敷いて「自分の居場所」を確保しようとする。

 

この「境界」を、自分ではそんなに意識していなくても、他人が敷いたマット(=他人の居場所)に立ち入るのは、気が引けるはず。

 

無意識的に、ヨガのクラスの空間に、いくつも境界線が引かれていく。

 

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もしかしたら、ヨガマットの色やデザインによって、「個性」を発揮しようとする人もいるかもしれない。それもひとつの機能だ。 

 

 

ところで、もともとヨガは「結合」を意味する単語だ。

 

ヨガの目的には、「ヨガとそうでない(と思っている)もの」の結合、「自己と他者」の結合も含まれているはずだ。

 

ならば、究極的には、無意識のうちに引いているあらゆる境界を取り去りたい。

 

結合、Union、Oneness・・・

 

これらの言葉を用いて表現される世界観が、真に現実のものとなるならば、それはヨガマットがいらなくなった時、とすら言えるかもしれない。

 

「今はヨガの時間」、「今はヨガじゃない時間」。

「ここは私の場所」、「そこはあの人の場所」。

 

そんな区別が問題にならないくらい、「ヨガ」が実践できたらいいんだけど、なかなかそうもいかない。

 

現実問題として、これらの区別を設けないと、実践が進まない。

 

とは言え、ヨガマットを使うという手段、もっと言うならあらゆるポーズや呼吸法のテクニックなど、、

これらに頼っているかぎりは、常に境界線を引き続けている行為になる。

 

だから、手放しでは喜べないんだよね。

いつかは捨てる、補助輪をつけながら走っているような感じ。

 

ウィトゲンシュタインはこう言った。

 

登り切ったハシゴは、投げ捨てなければいけない。

 

ヨガマットも、ポーズも、呼吸法も、すべて投げ捨ててしまえる日が、僕に来るだろうか。

来たら来たでよし。

来なくても、諸々の手段に頼る中で、常にその手段から離れようとする運動のなかで、そこにヨガが生じている。

 

 

残酷な色、もしくは残酷な人間(色覚異常の僕が見る世界)

 

色覚異常の僕は、見えている世界の色を、○○色という名前に変換する作業が苦手だ。

また、世界の中から○○色を探すのも苦手だ。

 

仮に、僕がこれらのことにチャレンジすると、何が起きるか。ちょっと劇場的に書いてみる。

 

やんちゃな色たち 

 

「これ何色?」

この問いが発せられた瞬間、

 

見えている世界の色たちは、「俺たちは○○色なんていう型にはまらないぞ!」と、猛烈に主張してくる。

結局僕は、彼ら(色たち)を、なんと呼んだらいいのか分からなくなる。

 

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中には、わずかだが、「○○色」という型のど真ん中に、おとなしく、従順に座り込んでくる色もある。

僕はそれを、「典型的な赤」などと呼びたくなる。

だいたいが人工物だ。作られた色。

 

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僕が「典型的な赤」と呼びたくなるのはこんな色だ。

 

 

一方、僕にとって、それ以外のほとんどの色は、○○色という型にはめこまれることに反発する。

血気盛んな、反抗期のような色たち。

絶対に手に負えないやんちゃな子どもを相手にしているような気分になる。

特に、木、草などの自然物についている色たちの反発は、とんでもない!

 

彼らは、一瞬たりとも、落ち着いて「○○色」の中に座り込んでくれない。

ちょっと日が当たったり、風が吹いたりするだけで、すぐにフラーっとどこかに行ってしまう。

落ち着いて、「○○色」という名前を与えてあげようとした瞬間、もう違うような気がしてしまう。

必死になって名前を探す僕に、色たちは全く取り合ってくれない。

 

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こういう花たちも、なかなか分かりにくく、僕を困らせる色をしている。

ちなみに、僕が着ているこのシャツは、「典型的な黄色」と呼びたくなる色だ。

 

 

 

反対に、世界から「○○色」のものを探すという試みをしてみる。

 

その瞬間、色たちは「見つかるもんか!」と一斉にかくれんぼをし始めてしまう。

「○○色、出てこい!」と呼び掛けてみても、「俺たちはそんな名前じゃない!」と、そっぽを向かれてしまう。

やっぱり、色たちは僕に優しくない。

 

世界か自分の方か。

 

こうやってみると、色たちは、僕にとって、ずいぶんと意地悪で、残酷だ。

いや、たぶん、本当は僕たちのほうが残酷なんだ。

 

各々の色が持つ多彩な個性の数々を捨象し、ある名前の中に押し込もうとすることのほうがきっと、暴力的で、残酷なんだと思う。

 

ある人が、僕の色覚異常を肯定的に捉えてくれたおかげで、僕も自分の目から見える「やんちゃな色たちの世界」を、幾分か肯定的に見られるようになってきた。

 

僕が困るのをよそに、好き勝手、個性を発揮しまくっている自由な色たちは、なんだか愛おしい。

逆に、おとなしく「○○色」であることを認めてくる従順な色たちは、なんだか、人間に支配されているみたいで、ちょっとかわいそうだ。

「ごめんね、人間がこんな色を塗っちゃって」と言いたくなる。

 

世界は、本来人間の手に負えないほど自由で、力強くて、残酷で、優しい。

 

こんなことを書いていたら、なんだかこんな歌詞を連想した。

 

汚れちゃったのはどっちだ。世界か自分の方か。いずれにせよ、その瞳は開けるべきなんだよ。それが全て、気が狂うほど、まともな日常。(「ギルド」BUMP OF CHICKEN

 

色覚異常の僕が困る8のこと

 

実は僕、色覚異常なんです。

前回このことを公表し、それなりに反響がありました。

 

具体的に、どんな場面で困るか、その例を挙げていきます。

色覚異常の人がみんなそう、ってわけではありません。あくまで、僕の経験から。

 

ちなみに、僕が異常を自覚したのは、たぶん中学生くらいです。両親は僕が生まれたときから知っていたわけですし、中学生以前にも僕に教えてくれていたような気がしますが、人と見え方が違うことを僕自身がちゃんと自覚したのはたぶんそのくらい。

それまでは、「なんか違う気がするな~」くらいでした。

 

①お絵かき、ぬり絵

最も困る年代は、たぶん幼稚園から小学校低学年くらい。色鉛筆とかクレヨンで、「○色で書いてー」という要望は、大の苦手だった。というより、「なんでみんな簡単にできるんだ?」と思っていた。

 

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②植物のスケッチ

小学校でよくある「アサガオの観察」など。これ、本当に難しかった!

「ほんとうにこんな風に見えた?」って先生に聞かれたときは、「ああ、なんか間違えたんだな」と思っていた。

 

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ちゃんと、「きれいだな」とは思う。 

 

③サッカーのユニフォーム、ビブス

高校まで、人生のほとんどを捧げていたサッカーの中でも、たまにこの問題は起きた。

今でも覚えているのが、高校の時のある練習試合。

 

僕らがえんじで、相手がピンク。見分けにくい、ってことで、僕らがアウェー用の白に着替えた。

でも、僕からすると、えんじとピンクは全く別の色。そして、ピンクと白は、とっても見分けにくい。

「元に戻して!」と思ったけど、そうするとみんなが困るので、この日は我慢した。

 

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色覚異常は、「見分けの能力が低い」っていうより、「見分けの基準がズレている」んだと思う。

 

 ④焼肉

赤系と茶色系の見分けが難しい僕にとって、焼肉の焼き加減は大問題。

処世術としては、不器用なふりをして誰かに焼いてもらう。

肉だけのBBQ

「これ、もう食べていい?」何回も聞くけど、辛抱づよく教えてください。

 

⑤紅葉がきれいに見えない。

日本人としては、なかなか痛い。緑の葉っぱと赤い葉っぱの差があまりないので、紅葉のきれいさはなかなか分からない。イチョウくらい突き抜けて目立ってくれると、分かるんだけど。

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そうそう、こういうとき。ちょっと遠くの山を指して、「紅葉きれいだねー」と言う人。「どこのことをきれいだと言ってるんだろう??」となる。

 

ちなみに、桜はきれいに見えます。

 

 ⑥「緑色のお皿取って」

バイト先で言われたこと。こういう何気なさが、けっこうキツイ。特に、緑とか地味な色だとね。。

 

⑦「あのピンクの服の子がさー」

こういう会話もしかり。ごめん、そういう記憶の仕方をしないんだよ。

 

⑧女の子「私きのう髪染めたんだ~」

う、、ってなる。もう少し明るくしてくれりゃ気づくのに。

 

 

いかがでしょうか。

 

ちょっと同情する??笑

 

まあ、たまに困ります。

 

でも、日常の大方は問題ないです。信号も、ちゃんと見えます。

 

それに、悪いことばっかりでもない。次回は、ちょっと得したことについて、書きたいと思います。

僕、実は○○なんです。

 

いきなり何のカミングアウトだよ、って感じでしょうか。

 

まぁ、そんなに深刻にならずに受け止めてくださいな。

実際、そんなに深刻なことではないですから。

 

実は僕、先天的に色覚異常なんです。

 

そんなに珍しいことではありません。男性の20人に1人がそうらしいです。

以前は小学校で全員検査をしていたそうですが、2003年から廃止されてしまったようです。

だから、特に1993年以降に生まれた方は、一度チェックしてみたほうがいいかもしれません。

(参考サイトはこちら

 

緑系、青系、赤系に分かれるらしく、僕の場合は全部なんですね。

先天的な色覚異常は、隔世遺伝します。特に男の人に多く表れます。

だから、僕の孫の代に男の子が生まれたら、その子も高確率で色覚異常になるようです。

 

僕の場合はというと、祖父がふたりとも色覚異常なので、生まれた時点でもう逃れられない運命だったようです。笑

 

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 沖縄にいる祖父と、シーサーつくったとき。

 

「異常」のとらえ方

 

ごく親しい人を除いて、あまり公表していませんでしたが、今回公表する決意をしたのは、色覚異常を持って生まれてきたことを、ものすごく肯定的にとらえてくれる人に出会ったからです。

「なにそれ、面白いじゃん!」と。

 

以前の僕は、そんなに深刻な問題でもないけど、困るときは困るよなぁ、くらいの認識でした。

 

でも、よくよく考えると、僕の人間形成において、良くも悪くもかなり影響を及ぼしているのかも、と思えてきました。それに、僕から見える景色が人と違うということは、それ自体でかなり面白く、追求する価値があるんじゃないか、と思うようになってきました。

 

色覚異常であることで、困る事、逆に得すること、知ってもらいたいことなど、今後できるだけ記事にしていきたいと思います。

 

それにしても、「異常」っていう言葉になると、なんだか大変なことのように聞こえるよなあ・・・

 

通「常」とは「異」なるって言えば、そんなに大したことじゃない気がするんだけど。

なぜか「いじょう」という響きになった途端、仰々しい雰囲気になる。

 

それでも、以前に使われていたという「色盲」や「色覚障害」よりはマシだ。

(少なくとも、「盲」ではない!色は見えている。色の識別が、通常とはちょっと違う、っていうだけです。)

 

ところで、20人にひとりだからしょっちゅう出会ってもおかしくないはずなのに、「私は色覚異常です」っていう人に僕は出会ったことがない。

隠しているのか、自分でも気づいていないのか、そんなに大した問題じゃない、と思っているのか。

 

この際なので、もし心当たりがある方がいらっしゃったら、こっそり教えてくれると嬉しいです。

 

概念とイマココ

Are you enjoying by the pose itself? Or by “doing” the pose?

 

あなたはポーズそのものによって歓びを得ているか?

それとも、ポーズを「すること」によってか?

 

 

ハートオブヨガのティーチャートレーニングにて、ちょっと哲学チックなこんな問いかけ。

通訳さんも、訳すの大変だっただろうな。

 

何気ない一言だったけど、僕の中で引っかかっていた。

このことで何を言おうとしていたのか?

 

ヨガの練習において、ポーズをとる。

 

例えば、チャトランガというポーズがある。

腕立て伏せに似た、多少腕力に負荷がかかるポーズだ。

 

ジェイは繰り返し言った。

 

Even if it is challenging for you, you can try as long as you can enjoy it.

負荷がかかるものでも、それを楽しめる限りチャレンジしていいよ。

 

 

でも、このenjoyが、何によるenjoyなのか。

僕らは、ここを問う必要があるのではないか。

 

その「楽しんでるよ」は・・

 

多少の負荷なら、筋肉にも心地よい。

でも、「頑張ること」がクセとして身についている僕らは、ついつい無理をしがちだ。

チャトランガで、明らかに苦しそうなのに腕の筋肉を頑張らせ続けてしまう人もいる。

 

だが、それすらも「楽しんでるよ!」と言えてしまう人がいるのだ。

 

その「楽しんでいる」は、本当に「チャトランガそのもの」を楽しんでいるのか?

 

例えば、腕に負荷をかけ、「負荷に耐える自分」を楽しんでいたり、「頑張れる自分」を(自他へ)アピールすることを楽しんでいたり、「このポーズによってこんな効果が得られる!」という効果に酔っていたり。

 

つまり、ポーズそれ自体を楽しんでいるのではなく、ポーズを「すること」によっていろいろ付いてくる副産物を楽しんでいる。言い換えれば、「ポーズをとっている」のではなく、むしろポーズに付随する概念を遂行しているに過ぎない。

 

別に、それらが悪いわけじゃない。

不純な動機が混じっていても、楽しめるならそれでいいのだ。

 

ただ、注意しておきたいこともある。

 

ポーズそのものではなく、それに付随する概念を楽しんでいるとき、今ここにあるカラダと向き合っているようで、実は向き合っていない、ということが起きてくる。

 

「ポーズに付随する効果」に酔いながらポーズをとっているとき、(しかもそれを「楽しんでいる」とき、)注意はどこに向いているか。「効果を得た自分」という架空の存在に向いていたりするのだ。

 

そのまま練習していると、ちょっと危ない。今ここにあるカラダが、向き合う対象ではなく、「効果を得る」というストーリーを遂行するための道具になってしまう。リアルタイムで訴えかけてくるカラダの声が聴けないので、ケガの危険もある。

 

というわけで、ヨガの練習においては、「何を楽しんでいるのか?」という問いが重要になる。

もし、ポーズそのものではなく、何かとってつけた「意味」や「概念」(効果やカッコよさなど)を楽しんでいるとしたら、ちょっと注意が必要だ。

 

 

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チャトランガwith 8歳の少女

もしかしたらこのときの僕は、ポーズそのものより、「子どもをくっつけてポーズをとっているという面白さ」や「撮られるであろう写真の面白さ」を楽しんでしまっていたかもしれない。事実、ちょっと腕に負担をかけすぎた気がする。

『なぜ母親は、子どもにとって最高の治療家になれるのか?』

母親のような強い気持ちと、それを可能にする技術

 

ケガをした子どもに、母親がそっと手を当てる。無意識的に行うその行為にこそ、どんな治療技術にもまさる力があるのかもしれない。

 

我が子の身体の奥深いところにあるその“治る力”を信じ、<手当て>ひとつでその力を引き出すことができる「我が子を思う母親」というのは、(中略)いつの時代も変わらぬ「最高の治療家」なのです。

(「はじめに」より)

 

このことを、プロの治療家として何人もの治療に携わってきた著者が言うのだから、説得力がある。

 

「治したい!」という母親のような強い気持ちと、それを可能にする治療技術。どちらが欠けても治療は成り立たないが、どちらがより不可欠かというと、前者だろう。

まず「治したい!」という気持ちがあり、それから手段としての技術があるのであり、治療技術が先にあるのではない。

 

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とは言え、著者は決して技術をないがしろにしているわけではない。筆者はあらゆる研究分野を柔軟に取り入れ、最先端の治療技術を追求しており、本書でも具体的な治療技術の手引きは紹介されている。

 

でも、極論「治るならなんでもいい!」のだ。

ある方法を忠実になぞることは、それ自体には意味はない。

 

治療技術や健康法に限らず、あらゆる方法論で溢れる現代は、このことが忘れられがちだ。

方法論が具体化し、詳細になるほど、それをやること自体が目的化してしまう。

 

最もシンプルなものこそ効果がある

 

本書の最後で紹介される方法は、「手当て」という極めてシンプルなものである。

 

このシンプルさならば、誰もが実践に移せる。あるいは、もうすでに実践している。(頭痛のときに頭に手を当てたことがあるなら、すでに実践者だ。)

 

方法論は、実際に行われてこそ意義がある。

そういった意味で、シンプルであるということはひとつの力だ。

 

シンプルであればこそ、多くの人によって実践され、効果を挙げることができる。

 

 

 

手当てが教えてくれること

 

というわけで、この本を読んだ僕も、手当てによるセルフケアを始めてみた。

 

寝る前に、数分間自分のお腹に手を当て、呼吸を繰り返す。

 

やってみて感じるのは、手を当てることそれ自体より、自分の身体を労わる時間をつくることそのものに価値があるんじゃないか、ということだ。

もちろん、手を当てることによる効果も感じている。

 

でも、それより自分の身体に耳を澄ませ、敏感になるための時間を確保すること。

そうすることで、自分の身体が発するシグナルに敏感になることができる。

 

セルフ手当ては、それ自体にも治癒効果がありそうだが、それに加えて自分の身体との親密さを増し、自分の身体が求めているものに敏感になれるという効果もあると思われる。自分の身体の声がより聴けるようになれば、錯綜する方法論に惑わされることなく、自分にとってよい選択をすることができそうだ。

 

 

治療家による思索、誰でもできる手当て法など、気になった方はぜひ手に取ってみてください。

 

『なぜ母親は、子どもにとって最高の治療家になれるのか?』(和器出版)