的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

残酷な色、もしくは残酷な人間(色覚異常の僕が見る世界)

 

色覚異常の僕は、見えている世界の色を、○○色という名前に変換する作業が苦手だ。

また、世界の中から○○色を探すのも苦手だ。

 

仮に、僕がこれらのことにチャレンジすると、何が起きるか。ちょっと劇場的に書いてみる。

 

やんちゃな色たち 

 

「これ何色?」

この問いが発せられた瞬間、

 

見えている世界の色たちは、「俺たちは○○色なんていう型にはまらないぞ!」と、猛烈に主張してくる。

結局僕は、彼ら(色たち)を、なんと呼んだらいいのか分からなくなる。

 

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中には、わずかだが、「○○色」という型のど真ん中に、おとなしく、従順に座り込んでくる色もある。

僕はそれを、「典型的な赤」などと呼びたくなる。

だいたいが人工物だ。作られた色。

 

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僕が「典型的な赤」と呼びたくなるのはこんな色だ。

 

 

一方、僕にとって、それ以外のほとんどの色は、○○色という型にはめこまれることに反発する。

血気盛んな、反抗期のような色たち。

絶対に手に負えないやんちゃな子どもを相手にしているような気分になる。

特に、木、草などの自然物についている色たちの反発は、とんでもない!

 

彼らは、一瞬たりとも、落ち着いて「○○色」の中に座り込んでくれない。

ちょっと日が当たったり、風が吹いたりするだけで、すぐにフラーっとどこかに行ってしまう。

落ち着いて、「○○色」という名前を与えてあげようとした瞬間、もう違うような気がしてしまう。

必死になって名前を探す僕に、色たちは全く取り合ってくれない。

 

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こういう花たちも、なかなか分かりにくく、僕を困らせる色をしている。

ちなみに、僕が着ているこのシャツは、「典型的な黄色」と呼びたくなる色だ。

 

 

 

反対に、世界から「○○色」のものを探すという試みをしてみる。

 

その瞬間、色たちは「見つかるもんか!」と一斉にかくれんぼをし始めてしまう。

「○○色、出てこい!」と呼び掛けてみても、「俺たちはそんな名前じゃない!」と、そっぽを向かれてしまう。

やっぱり、色たちは僕に優しくない。

 

世界か自分の方か。

 

こうやってみると、色たちは、僕にとって、ずいぶんと意地悪で、残酷だ。

いや、たぶん、本当は僕たちのほうが残酷なんだ。

 

各々の色が持つ多彩な個性の数々を捨象し、ある名前の中に押し込もうとすることのほうがきっと、暴力的で、残酷なんだと思う。

 

ある人が、僕の色覚異常を肯定的に捉えてくれたおかげで、僕も自分の目から見える「やんちゃな色たちの世界」を、幾分か肯定的に見られるようになってきた。

 

僕が困るのをよそに、好き勝手、個性を発揮しまくっている自由な色たちは、なんだか愛おしい。

逆に、おとなしく「○○色」であることを認めてくる従順な色たちは、なんだか、人間に支配されているみたいで、ちょっとかわいそうだ。

「ごめんね、人間がこんな色を塗っちゃって」と言いたくなる。

 

世界は、本来人間の手に負えないほど自由で、力強くて、残酷で、優しい。

 

こんなことを書いていたら、なんだかこんな歌詞を連想した。

 

汚れちゃったのはどっちだ。世界か自分の方か。いずれにせよ、その瞳は開けるべきなんだよ。それが全て、気が狂うほど、まともな日常。(「ギルド」BUMP OF CHICKEN

 

色覚異常の僕が困る8のこと

 

実は僕、色覚異常なんです。

前回このことを公表し、それなりに反響がありました。

 

具体的に、どんな場面で困るか、その例を挙げていきます。

色覚異常の人がみんなそう、ってわけではありません。あくまで、僕の経験から。

 

ちなみに、僕が異常を自覚したのは、たぶん中学生くらいです。両親は僕が生まれたときから知っていたわけですし、中学生以前にも僕に教えてくれていたような気がしますが、人と見え方が違うことを僕自身がちゃんと自覚したのはたぶんそのくらい。

それまでは、「なんか違う気がするな~」くらいでした。

 

①お絵かき、ぬり絵

最も困る年代は、たぶん幼稚園から小学校低学年くらい。色鉛筆とかクレヨンで、「○色で書いてー」という要望は、大の苦手だった。というより、「なんでみんな簡単にできるんだ?」と思っていた。

 

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②植物のスケッチ

小学校でよくある「アサガオの観察」など。これ、本当に難しかった!

「ほんとうにこんな風に見えた?」って先生に聞かれたときは、「ああ、なんか間違えたんだな」と思っていた。

 

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ちゃんと、「きれいだな」とは思う。 

 

③サッカーのユニフォーム、ビブス

高校まで、人生のほとんどを捧げていたサッカーの中でも、たまにこの問題は起きた。

今でも覚えているのが、高校の時のある練習試合。

 

僕らがえんじで、相手がピンク。見分けにくい、ってことで、僕らがアウェー用の白に着替えた。

でも、僕からすると、えんじとピンクは全く別の色。そして、ピンクと白は、とっても見分けにくい。

「元に戻して!」と思ったけど、そうするとみんなが困るので、この日は我慢した。

 

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色覚異常は、「見分けの能力が低い」っていうより、「見分けの基準がズレている」んだと思う。

 

 ④焼肉

赤系と茶色系の見分けが難しい僕にとって、焼肉の焼き加減は大問題。

処世術としては、不器用なふりをして誰かに焼いてもらう。

肉だけのBBQ

「これ、もう食べていい?」何回も聞くけど、辛抱づよく教えてください。

 

⑤紅葉がきれいに見えない。

日本人としては、なかなか痛い。緑の葉っぱと赤い葉っぱの差があまりないので、紅葉のきれいさはなかなか分からない。イチョウくらい突き抜けて目立ってくれると、分かるんだけど。

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そうそう、こういうとき。ちょっと遠くの山を指して、「紅葉きれいだねー」と言う人。「どこのことをきれいだと言ってるんだろう??」となる。

 

ちなみに、桜はきれいに見えます。

 

 ⑥「緑色のお皿取って」

バイト先で言われたこと。こういう何気なさが、けっこうキツイ。特に、緑とか地味な色だとね。。

 

⑦「あのピンクの服の子がさー」

こういう会話もしかり。ごめん、そういう記憶の仕方をしないんだよ。

 

⑧女の子「私きのう髪染めたんだ~」

う、、ってなる。もう少し明るくしてくれりゃ気づくのに。

 

 

いかがでしょうか。

 

ちょっと同情する??笑

 

まあ、たまに困ります。

 

でも、日常の大方は問題ないです。信号も、ちゃんと見えます。

 

それに、悪いことばっかりでもない。次回は、ちょっと得したことについて、書きたいと思います。

僕、実は○○なんです。

 

いきなり何のカミングアウトだよ、って感じでしょうか。

 

まぁ、そんなに深刻にならずに受け止めてくださいな。

実際、そんなに深刻なことではないですから。

 

実は僕、先天的に色覚異常なんです。

 

そんなに珍しいことではありません。男性の20人に1人がそうらしいです。

以前は小学校で全員検査をしていたそうですが、2003年から廃止されてしまったようです。

だから、特に1993年以降に生まれた方は、一度チェックしてみたほうがいいかもしれません。

(参考サイトはこちら

 

緑系、青系、赤系に分かれるらしく、僕の場合は全部なんですね。

先天的な色覚異常は、隔世遺伝します。特に男の人に多く表れます。

だから、僕の孫の代に男の子が生まれたら、その子も高確率で色覚異常になるようです。

 

僕の場合はというと、祖父がふたりとも色覚異常なので、生まれた時点でもう逃れられない運命だったようです。笑

 

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 沖縄にいる祖父と、シーサーつくったとき。

 

「異常」のとらえ方

 

ごく親しい人を除いて、あまり公表していませんでしたが、今回公表する決意をしたのは、色覚異常を持って生まれてきたことを、ものすごく肯定的にとらえてくれる人に出会ったからです。

「なにそれ、面白いじゃん!」と。

 

以前の僕は、そんなに深刻な問題でもないけど、困るときは困るよなぁ、くらいの認識でした。

 

でも、よくよく考えると、僕の人間形成において、良くも悪くもかなり影響を及ぼしているのかも、と思えてきました。それに、僕から見える景色が人と違うということは、それ自体でかなり面白く、追求する価値があるんじゃないか、と思うようになってきました。

 

色覚異常であることで、困る事、逆に得すること、知ってもらいたいことなど、今後できるだけ記事にしていきたいと思います。

 

それにしても、「異常」っていう言葉になると、なんだか大変なことのように聞こえるよなあ・・・

 

通「常」とは「異」なるって言えば、そんなに大したことじゃない気がするんだけど。

なぜか「いじょう」という響きになった途端、仰々しい雰囲気になる。

 

それでも、以前に使われていたという「色盲」や「色覚障害」よりはマシだ。

(少なくとも、「盲」ではない!色は見えている。色の識別が、通常とはちょっと違う、っていうだけです。)

 

ところで、20人にひとりだからしょっちゅう出会ってもおかしくないはずなのに、「私は色覚異常です」っていう人に僕は出会ったことがない。

隠しているのか、自分でも気づいていないのか、そんなに大した問題じゃない、と思っているのか。

 

この際なので、もし心当たりがある方がいらっしゃったら、こっそり教えてくれると嬉しいです。

 

概念とイマココ

Are you enjoying by the pose itself? Or by “doing” the pose?

 

あなたはポーズそのものによって歓びを得ているか?

それとも、ポーズを「すること」によってか?

 

 

ハートオブヨガのティーチャートレーニングにて、ちょっと哲学チックなこんな問いかけ。

通訳さんも、訳すの大変だっただろうな。

 

何気ない一言だったけど、僕の中で引っかかっていた。

このことで何を言おうとしていたのか?

 

ヨガの練習において、ポーズをとる。

 

例えば、チャトランガというポーズがある。

腕立て伏せに似た、多少腕力に負荷がかかるポーズだ。

 

ジェイは繰り返し言った。

 

Even if it is challenging for you, you can try as long as you can enjoy it.

負荷がかかるものでも、それを楽しめる限りチャレンジしていいよ。

 

 

でも、このenjoyが、何によるenjoyなのか。

僕らは、ここを問う必要があるのではないか。

 

その「楽しんでるよ」は・・

 

多少の負荷なら、筋肉にも心地よい。

でも、「頑張ること」がクセとして身についている僕らは、ついつい無理をしがちだ。

チャトランガで、明らかに苦しそうなのに腕の筋肉を頑張らせ続けてしまう人もいる。

 

だが、それすらも「楽しんでるよ!」と言えてしまう人がいるのだ。

 

その「楽しんでいる」は、本当に「チャトランガそのもの」を楽しんでいるのか?

 

例えば、腕に負荷をかけ、「負荷に耐える自分」を楽しんでいたり、「頑張れる自分」を(自他へ)アピールすることを楽しんでいたり、「このポーズによってこんな効果が得られる!」という効果に酔っていたり。

 

つまり、ポーズそれ自体を楽しんでいるのではなく、ポーズを「すること」によっていろいろ付いてくる副産物を楽しんでいる。言い換えれば、「ポーズをとっている」のではなく、むしろポーズに付随する概念を遂行しているに過ぎない。

 

別に、それらが悪いわけじゃない。

不純な動機が混じっていても、楽しめるならそれでいいのだ。

 

ただ、注意しておきたいこともある。

 

ポーズそのものではなく、それに付随する概念を楽しんでいるとき、今ここにあるカラダと向き合っているようで、実は向き合っていない、ということが起きてくる。

 

「ポーズに付随する効果」に酔いながらポーズをとっているとき、(しかもそれを「楽しんでいる」とき、)注意はどこに向いているか。「効果を得た自分」という架空の存在に向いていたりするのだ。

 

そのまま練習していると、ちょっと危ない。今ここにあるカラダが、向き合う対象ではなく、「効果を得る」というストーリーを遂行するための道具になってしまう。リアルタイムで訴えかけてくるカラダの声が聴けないので、ケガの危険もある。

 

というわけで、ヨガの練習においては、「何を楽しんでいるのか?」という問いが重要になる。

もし、ポーズそのものではなく、何かとってつけた「意味」や「概念」(効果やカッコよさなど)を楽しんでいるとしたら、ちょっと注意が必要だ。

 

 

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チャトランガwith 8歳の少女

もしかしたらこのときの僕は、ポーズそのものより、「子どもをくっつけてポーズをとっているという面白さ」や「撮られるであろう写真の面白さ」を楽しんでしまっていたかもしれない。事実、ちょっと腕に負担をかけすぎた気がする。

『なぜ母親は、子どもにとって最高の治療家になれるのか?』

母親のような強い気持ちと、それを可能にする技術

 

ケガをした子どもに、母親がそっと手を当てる。無意識的に行うその行為にこそ、どんな治療技術にもまさる力があるのかもしれない。

 

我が子の身体の奥深いところにあるその“治る力”を信じ、<手当て>ひとつでその力を引き出すことができる「我が子を思う母親」というのは、(中略)いつの時代も変わらぬ「最高の治療家」なのです。

(「はじめに」より)

 

このことを、プロの治療家として何人もの治療に携わってきた著者が言うのだから、説得力がある。

 

「治したい!」という母親のような強い気持ちと、それを可能にする治療技術。どちらが欠けても治療は成り立たないが、どちらがより不可欠かというと、前者だろう。

まず「治したい!」という気持ちがあり、それから手段としての技術があるのであり、治療技術が先にあるのではない。

 

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とは言え、著者は決して技術をないがしろにしているわけではない。筆者はあらゆる研究分野を柔軟に取り入れ、最先端の治療技術を追求しており、本書でも具体的な治療技術の手引きは紹介されている。

 

でも、極論「治るならなんでもいい!」のだ。

ある方法を忠実になぞることは、それ自体には意味はない。

 

治療技術や健康法に限らず、あらゆる方法論で溢れる現代は、このことが忘れられがちだ。

方法論が具体化し、詳細になるほど、それをやること自体が目的化してしまう。

 

最もシンプルなものこそ効果がある

 

本書の最後で紹介される方法は、「手当て」という極めてシンプルなものである。

 

このシンプルさならば、誰もが実践に移せる。あるいは、もうすでに実践している。(頭痛のときに頭に手を当てたことがあるなら、すでに実践者だ。)

 

方法論は、実際に行われてこそ意義がある。

そういった意味で、シンプルであるということはひとつの力だ。

 

シンプルであればこそ、多くの人によって実践され、効果を挙げることができる。

 

 

 

手当てが教えてくれること

 

というわけで、この本を読んだ僕も、手当てによるセルフケアを始めてみた。

 

寝る前に、数分間自分のお腹に手を当て、呼吸を繰り返す。

 

やってみて感じるのは、手を当てることそれ自体より、自分の身体を労わる時間をつくることそのものに価値があるんじゃないか、ということだ。

もちろん、手を当てることによる効果も感じている。

 

でも、それより自分の身体に耳を澄ませ、敏感になるための時間を確保すること。

そうすることで、自分の身体が発するシグナルに敏感になることができる。

 

セルフ手当ては、それ自体にも治癒効果がありそうだが、それに加えて自分の身体との親密さを増し、自分の身体が求めているものに敏感になれるという効果もあると思われる。自分の身体の声がより聴けるようになれば、錯綜する方法論に惑わされることなく、自分にとってよい選択をすることができそうだ。

 

 

治療家による思索、誰でもできる手当て法など、気になった方はぜひ手に取ってみてください。

 

『なぜ母親は、子どもにとって最高の治療家になれるのか?』(和器出版)

「成長モデル」の落とし穴

  1. できない
  2. 意識しながら、ゆっくりとならできる
  3. 意識しなくてもできる

 

運動技能を習得する際の成長モデルとして、一般的に用いられる図式を持ち出してみた。僕の記憶では、高校の頃の保健体育の教科書にも登場した気がする。



例えば、サッカーのパスを練習する際には、足の角度は味方と水平に、味方の位置を見て、次にボールを見る、といった具合にポイントを意識しながら練習する(させられる)。高校時代、僕は「サッカーの基本」ともいえるこれらの要素を常に「意識しながら」練習することが大切なのだと教え込まれてきた。

 

もちろん、新しい運動を習得していく際に、意識的にポイントをおさえて繰り返し練習することは重要だ。そのことでカラダが動きを覚え、自動化していく。このプロセスを踏んでいくこと自体は納得。

 

 

しかし、どうなのか?

疑問① 意識的に練習するということは、ある程度の段階までは有効であるものの、ある段階を超えてからはむしろ邪魔になるのでは?ということ。

疑問② 何か新しいことを習得する際にも、意識していてはダメなことがある。言い換えれば、意識していては決してできず、ふと意識が外れた瞬間にできるようになる、という領域が存在するということ。

 

意識「し過ぎない」練習

僕の高校時代のある日、サッカーの練習中に接触プレーで軽い鼻血が出たことがあった。この時は練習を止められる雰囲気ではなかったので、手で血を抑えながらなんとかプレーを続けた。ところが、この時のプレーが、自分でも驚くほど冴えていた!

 

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 この時は鼻血を止めることで必死だったので、前述した足の角度などはもちろん、その練習内容もほとんど意識できていなかった。鼻血に8割くらいの意識を配りながら、頭の片隅でなんとかプレーについていっていた状態だった。

 

この時の僕は、ほとんど「意識していない」状態だった。これは「基本」を蔑ろにしていることなのか?

否、ほとんど意識に上らない状態のまま、僕はいつになく完璧に「サッカーの基本」をこなせてしまっていたのだ。

 

重要であることと、意識的にやらなければならないことは必ずしも一致しない。むしろ、意識的にやることでその精度が落ちたり、逆に意識しないことでおのずと正確になったりすることがある。このことは、抜きがたい実感として僕の中に残った。

 

このことに関しては思い当たるところがある人は多いんじゃないか。何気なくできていたことが、意識し出した途端急にできなくなる。そんなときにすべきことは、「基本を意識し直すこと」ではなく、はじめの「何気なさに」戻ることなのかもしれない(こう言うと基本を軽視しているように思われるかもしれないけれど、そうではなく、大事だからこそ、意識の支配下に置かずに「何気なさ」に任せるべきではないか?ということ)。



 まったくの散漫であることも問題ですが、生真面目な人の場合多くは「意識しすぎ」の方が問題になっている。「意識する」という練習はさかんに行われるのに、「意識しすぎない」という練習はどういうわけかほとんど行われていない。ここに、運動技能を高める教育をする際に見直すべきポイントがあるのかもしれない(運動技能のみに留まる話じゃないかも)。

 

素人の怖い物知らず

疑問②に関して。

無意識にできるのはある程度練習を重ねた人だから可能なのであって、初めて行う運動は、やはりポイントを意識して行わなければうまくできないはず、と。

確かにそうだけど、こんな例外もある(そしてこの例外は、意外と無視できないほど大きいのではないか)。

 

「素人の怖いもの知らず」という言葉がある。まったくの初心者が、その運動の難しさを知らないがゆえに、簡単だと思って行い、本当にできてしまう現象を指す。いや、実際には簡単だとすら思っていない。行う運動に対して、「簡単そう・難しそう」といった予測や、「うまくやってやろう」といった恣意がまったくはたらいていないからこそ、できてしまうのだ。

 

なんとなく行うからこそ入れるこの状態は、ポイントを意識したりした時点で絶対に入れない。「意識しろ」の弊害、ともいうべきこと。



僕が高校時代に抱いた、このふたつの違和感。

冒頭の「成長モデル」みたいなものの背景にあるのは、異常なまでの意識への信頼感と、カラダへの不信感、といえるかもしれない。

 

「意識する」をあまりにも重視しすぎることは、意識の支配下にカラダを置かないと信用できない、と言っているようなものだ。「もうちょっとカラダのこと信用してあげなよ」と言いたくなる。

 

有難みに気づくということ。

失ってからでは…

 

有り難さは、それを失ったときに初めて気づく。

 

何かにつけ、よく言われる言葉だ。

 

「在る(有る)」ことが当たり前だと思っているときは、それがどんなに尊いことか、なかなか気づかない。

「有り難い」という漢字が、まさにそのことを表しているよね。

 

でも、失ってからでは気づけないものもある…

 

失ってからその有難みに気づこうとしても、時すでに遅し、というものもある。

 

 

3月に受講したハートオブヨガ指導者養成講座にて、マーク・ウィットウェル、J.ブラウン両先生が言い続けたこと。

 

 You are the extreme intelligence of life.

あなたは生命のこの上ない英知である。

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マークとは、スカイプでの会話。

 

あなたは今そのままで、完璧で、奇跡である。

マークとJは、どの人を前にしても、そう繰り返した。

 

正直、人によっては受け入れがたい言葉だと思う。

僕も、完全に腑に落ちたとは言いがたい。

 

でも、こんな風に考えてみるとどうだろう? 

 

呼吸をする。心臓が鼓動を打つ。血が流れている。

何より、この世界が存在していて、その中に僕が存在していること。

 

残念ながら、それらはその性質からして、失ったときには気づけない。

だから、今まさに、ここで起きていることに気づくことこそ、その有難みを感じることだったりするのだ。

 

たかが「気づく」だけど、よく考えれば僕たちが「幸せ」と呼ぶことの多くは、「気づく」ことから生まれている。

 

「気づく」ための営み 

とは言え、そんなお説教は聞きたくない、という人も多いだろう。

 

ハートオブヨガが出す結論はシンプルだ。

 

言葉は聴かなくてもいいから、練習してみなさい。

 

呼吸をして、その呼吸とともに動く。

 

その心地よさがカラダに残るだけでいい。

 

あえて言えば、生命として存在している自分に、今まさにここで気づく。

 

そんな営みが、ヨガの中で起きている。(自覚するときもあり、しないときもある。)

 

もちろん、僕らが気づかなくとも、そこに生命はあり、マーク流に言えば、「生命のこの上ない英知」として存在している。

 

でも、それに「気づく」か否か。

小さなことのようだけど、実はそのことで、幸せが大きく左右されるのではないか。

 

それに「気づく」ための営みが、別にヨガである必要はないと思う。

僕は、好きでやっているのであり、それ以上でも以下でもない。