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体和日記 Tai-wa-nikki

つくばを拠点に、体和塾(カラダを和ませ、カラダで世界と和する塾)という活動をしています。主な着想元は、ハートオブヨガと武術的な身体術。

ヨガをめぐって、ぐるぐる回る思考

 

昨年末に出会った、こんな言葉。

 

実り豊かな諸方法は、あまりにも意味を持ちすぎていて、私たちと未知のものとあいだに、それ自体が自己目的として追求されるような客体として介在してしまう。

 

もし諸手段に訴えることが活動性の気圏を定義するものであるなら、のっけから手段が語られるようなありさまではいかにしてこの気圏を破滅させえようか、と。ところでヨーガは、この破滅が達成されなければ何ごとでもないのだ。(バタイユ『内的体験』)

 

なんか、格好いい文章だな。

ヨガを実践しつつ、大学で勉強する僕にとって、決定的に重要な意味を持つ文章であることは、なんとなく分かった。

 

2か月くらいかかって、ようやくこの文章が僕の中で消化されてきた。

 

簡単にまとめると、こんなことだ。

 

ヨガには、さまざまな方法論(アプローチ)がある。

それらに頼ることによって、向上できる。

しかし同時に、それらの方法論への執着は、最も戒めなければならない。

ヨガの極致は、さまざまな方法論に頼らなくても済む状態である。(活動性の気圏が破壊→どこにいても、何をしていてもヨガである!)

この極致は、もはやヨガとは呼べない。(この状態こそ、サマーディと言えるのでは?)

 

というわけで、

ヨガは、それ自体にヨガを破壊する要素を内包しているという点において、僕はヨガを信用している。

 

という結論に行き着いたのでした。

 

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で、この結論に至ってからの僕はどうしているかというと、、

 

やっぱり、ヨガが持つ諸々の手段に頼って、実践するしかないわけです。

 

「ヨガの極致」なんてものを想定したけど、足元を見つめ、地道に毎日のプラクティスを積み重ねるしかない。

 

結局、ここに戻ってくるわけです。

 

でも、前とは明らかに違う感触はある。

 

ちょっと前にも書いたけど、

 

「これをやっていれば安心!」というような安心感は永遠に得られない、という不安定さの中に漂う感じ。

 

たぶん、生きてる、ってこういうことなんだろう。

 

この不安定さの中を生きる。これを、マットの上だけでなく、生きているすべてにおいて実践してこそ、「活動性の気圏の破壊」となるんだろうな、と。

 

やっていることは以前とあまり変わっていないけど、冒頭の文章に出会った後の僕は、内的には間違いなく変わりました。

 

この変化にすら、留まるのは野暮なんだけど。

 

ものすごく、まとまりのない文章でしたが、僕の探究は続きます。

逆立ちして、哲学してみた。

上下ひっくり返れば…

 

久しぶりの記事になります。

今日、自分でも自分がいかれているんじゃないか、というような行動をとっていました。

 

何をしたかというと、「逆立ちして、哲学した」のです。

 

大学は学期末。レポート課題に追われる中、頭の中がごちゃごちゃしているのが自分でもわかります。

 

そんな中でも、毎日ヨガは続けてます。

 

で、何を思い立ったか、哲学のレポートについての考えで頭がいっぱいのまま、ヨガマットに向かい、いきなりヘッドスタンド(頭を着いた逆立ち)をしてみたのです。(真似はしないでください。)

 

何が起こったかというと、何も起こりませんでした。

 

体を上下ひっくり返したとたん、魔法のように思考が整理されていく、なんてことは残念ながらありませんでした。

 

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 (この写真は僕じゃないです。インド人の友達。)

 

でも、こんな考えが浮かびました。(逆立ちしてる最中に!)

 

哲学とは、身体行為である。

思想は、カラダから生まれる。

だから、自分がどんなカラダであるかによって、浮かんでくる考えも異なってくるんじゃないか。

 

下支えとしてのカラダ

 

最近、哲学書を読んでいると、哲学者の中に入り込んでしまう、ということがしばしば起きます。

その人が味わっていたであろう、苦しみを文字通り身体的な痛みとして感じたり、逆にあまりの衝撃で、笑いが込み上げてきたり。(僕の場合、なぜか「笑いが込み上げてくる」ことが多いんですよね。図書館とかでそうなると、変な人みたいなので気をつけないと。)

 

ところで、哲学のスパイラルにはまっていくと、どうしても「暗く」なりがちだ。

そこから逃げない、誠実さも重要だが、別に明るくてもいいじゃん、とも思う。

 

だから、カラダって大事なんだと思う。

健康なカラダの下支えがあれば、暗くならざるを得ないような思考にも耐えうる。

 

極論、考え事をしているとき、どんな姿勢で考えているかとか、直前に何を食べたかとかによっても、その内実は変わってくるんでしょうね。

変にうつむいた姿勢でいると、思考のほうも引きずられて暗くなっていきそう。

 

だからこそ、毎日何かしらでカラダを癒してあげることって、結構重要なことなんじゃないだろうか。

僕の場合、その手段がヨガだったり武術だったり。

 

自分を自分で癒せる手段を持っておくこと。

 

現代を生きる上で、欠かせないスキルかもしれません。

 

でも、「逃げ道としてヨガをすること」を勧めているわけではありません。

 

逃避ではなく、むしろ戦えるカラダであるために。

 

 

姉について

 

最近、姉(22)がブログを始めた。以前からco-mediaという学生サイトでライターをやっていたみたいだが、個人的なことも書きたくて独立したらしい。

始めたばっかだって言うのに、猛烈な勢いで更新してる。もう記事数抜かれそう。

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そこで、僕のことも書いてくれたので、そのお返しに、姉のことも紹介します。

 

2歳上の姉は、だいぶ僕と性格が違う。

人と違うことをするのが好きで、しかも同時にいくつもこなす。

僕がサッカー一筋で生きていた間、一輪車、マリンバ(木琴)、ダンス、ジャグリング、バレーボールなんかをやっていて、しかもなんだかんだ勉強もできる。

(中学の成績は互角だったが、姉は県内でトップの高校に行き、僕は10番目くらいのところに行った。)

 

高校のとき、ひとつ下のラグビー部の人たちの中で、僕の姉ファンクラブがあったとかなかったとか。姉がその人たちを束ねて、体育祭でダンスを踊らせた、とか。

 

けっこうぶっ飛んでますよね。。

 

で、高校卒業後、なんと日本の大学を経ずに、イギリスの大学に行ってしまった。

今は最終学年で、来年から日本で就職するらしい。

 

イギリスでの生活は結構大変らしい。未だに、語学面での苦労は絶えない、と。

イケイケの女子高生だったのに、イギリスではバスの中での会話が怖い、なんて、こんな気持ちを抱くようになったんだね。友達が少ない人の気持ちも分かるようになってよかったんじゃない?とも思うけど。

 

わざわざ日本を飛び出してイギリスの大学に行ったのは、父の言葉があったかららしい。けっこういい話なので、気になる方はぜひ。今聞いても、「世界で一番いい大学を選んだ!」って自信持って公言しているので、よい選択をしたんだろうな、と思う。(その点では、僕の選んだ大学も負けてない)

 

こうやってみると、「やりたい!」への感性が高い人なんだろうな、と思う。だからこそ、そうと決めたら行動は早いし、コロコロ気が変わる。(彼氏もコロコロ変わる

 

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(真夏の北海道、トマトを丸かじりするふたり。)

 

 以上、弟による姉分析でした。

 

 

 では、姉のイギリス生活、ゆとりライフ、就活話など、興味ある方はこちら

 

 

「毎日が新鮮!」じゃなくてもいい

変えようとしなくたって

「一度として、同じヨガはありません」

 

毎日ヨガのプラクティスをするように勧めるとき、よく使われる文言がこれだ。

 

確かにそうなんだけど、この側面ばかり強調すると、ちょっとおかしな方向に傾くことがある。

 

それは、「違い」を探してしまうこと。

 

ヨガに限らず、生きていることは、それ自体で一回性のものだ。

 

別に、”make difference”しなくても、常に”be different”なのだ。(なんでこんな言い方になったんだろう。)

 

だから、今日が昨日と違うからといって、別に特別なわけじゃない。あえて言うと、「毎日が特別!」なんだけどね。

 

 飽き性でも続けるには。

 

ちょっと挑戦的に言うと、毎日のプラクティスで「違い」を求めようとするのは、傲慢かもしれない、ということだ。

 

「違い」を強調しすぎると、「今日はこんな気づきがあった!」、「今日は昨日とここが違う!」というようなことを、無意識のうちに求めてしまう。

 

人間は常に変わってもいるが、しかし恒常性の方も強力にはたらいているので、そんなに大した変化が毎日のようにあるわけじゃない。

 

変化を求めすぎることは、ともすると、勝手に作り出した「新しいストーリー」の中に自分をはめ込んでいくことにもなりかねない。「今日は昨日より呼吸が深い!」みたいな。

 

飽き性の僕は、これをやりがちなんですよね。

 

でも、たとえ感じられるような変化がなくて、淡々と毎日が続くとしても、地道に続けていくことの方がより重要なんじゃないか。

 

毎日のように、「今日はこんな発見があった!」とキラキラしていられるのも素敵なことだけどね。

 

なんなら、あえて全く同じようにやってみればいい。どうやっても、そうはならないから。

 

変化を実感できたとしても、感じられないとしても、僕らが生きている以上、そこに変化は起きている。

 

別に毎日新鮮な気持ちで行えないとしても、淡々と続ければいいんじゃないか。

 

こんなことを思い、今日もマットに立つ。

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JIDAIさんの演技を観て、考えたこと。

「魂の時間」

マイムアーティスト、JIDAIさんの舞台を観に行ってきた。

 

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演技後のお話では、「オーガニックマイム」というJIDAIさん独自の世界観が語られた。

 

一種の瞑想状態に入っているという演技の最中、エゴの感情ではなく、「普遍的な感情」、「宇宙に遍在する感情」が役者の身体を通して表出する、とJIDAIさんは言う。

 

その時、観ている僕たちも、一体となってその「普遍感情」を感じ、座って観ている観客でありながら、猟師になったり、動物になったり、いろいろな物に変身したりできる不思議な時間。

 

JIDAIさんはこの時間を、「魂の時間」と表現した。

 

この時、僕らは、大袈裟に言うと、「人間であること」をやめる。

 

日常を生きている、様々な「物語」から解放され、宇宙に還っていくような、そんな感じがする。

 

「聖なる魂」と、「俗なる私」

ところで、この「魂の時間」と、普通に日常を生きる「私」の時間。この両者をつなげないか。最近僕はこんなことを考えている。

 

「魂の時間」には、言葉がない。したがって、物語がない。

 

ふだん、頭で考えた「物語」を生きている僕たちに、この空白は理解できない。

 

JIDAIさんのマイムは、そこにわずかながら切り口を入れる。

 

「理解」が追い付かない魂の時間に、マイムの「物語性」というべきものが挿入されているおかげで、僕たちは、ふと「普段の私」に戻る。宇宙と一体となった「魂」から、「人間」に戻ったり、「日本人」に戻ったり、「悩んでいる私」に戻ったりする。

 

 このように、聖なる時間と普通の時間を行き来することで、僕たちの日常に揺さぶりをかけられるのではないか。「マイムのアイデアを日常から得られることはあるんですか」という質問に、JIDAIさんはこう答えていた。

 

 むしろ、マイムでやったことが、日常に気づきを与えてくれたりするんです。

 

 

ヨガのクラスも、どちらかというと「魂の時間」に近い。始まってからは、変にしゃべれないような、ピンとした緊張感が張りつめる。それはそれで好きなんだけど、この時間が、日常から全く断絶したものになってしまうと、なんだかもったいない気がする。

 

そこに、あえて「俗」なるものを持ちこんで、聖と俗を行き来する。そうすることで、ヨガの「特別感」をなくしていきたいと思っている。

 

ヨガは、特別な人が、特別な時にやるのではなく、普通の人が普通にやるものなんだと。

 

まとまっていませんが、僕の探究は続きます。

 

今回の文章、読んでも訳分からなかったら、JIDAIさんの演技を観に行ってみてください。このリンクからも、動画が見られます。

楽しそうに太鼓を叩く人は、太鼓からも愛されている

雀鬼」の言葉

 

高校生のときに読んでいた本をふと読み返してみた。

 

雀鬼桜井章一氏の『体を整える』という本。当時の僕が付箋を貼っていたのは、こんな言葉。

 

卓球の平野早矢香選手が、「練習量には自信があるのに、なんでもっとうまくならないんだろう」と悩んでいるとき、桜井氏が彼女にかけた言葉。

 

それじゃストーカーだよ。卓球から愛してもらうようにならないと…

 

高校のサッカー部で日々練習に励んでいた僕にとって、この言葉はかなり刺さったのを覚えている。

当時の僕のノートには、こんなメモがあった。

 

 監督より、チームメイトより、サッカーに愛されたい。サッカーが自分を好きになってくれるような人でありたい。

 

何気ない所作からわかること

 

 僕たちが、一方的に、何かを好きになることは自由だ。

 

 でも、向こうが好きになってくれるとは限らない。振り向いてもらうためには、独りよがりではいけない。

 

「私はこんなに頑張っているのに、なんで振り向いてくれないの!」という態度では、なかなか好きになってもらえないのだろう。

 

 ところで、幸せそうに自分の仕事や趣味に取り組んでいる人には、どこか共通点がある気がする。

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 和太鼓奏者が、一本一本のバチを自分の息子のようにかわいがる。ヨガの先生が、ヨガマットをやさしく広げる。料理人が、食材と対話するように包丁を入れていく。

 

 自分のやっていることと「両想い」になる。もちろん、簡単にはその方法を示せないけど、このような何気ない所作、モノの扱い方に、ひとつの切り口があるような気がする。

 

 そういえば、イチロー選手も、こんなことを言っていたという。

 

道具を大事にする気持ちは野球がうまくなりたい気持ちに通じる。

 

 何かに真剣に取り組むなら、好きになりたいし、両想いになりたいよね。

「無条件の愛」なんてことを「目指そうと」すると、とっても苦しくなる、という話

無条件の愛

 

ヨガで言われる、ひとつの目指すべき境地のようなもの。

 

「○○だからよい、○○だからダメ」などと判断することなく、常にそれらのあるがままを受け容れ、愛する。

 

 こんな聖人みたいな境地、あり得るのか?と思うんだけど、最近の僕にとって切実な問題だった。

 

 僕たちは、生まれたときから、判断をしまくっている。生後3か月くらいで「快・不快」という区別が生まれてから、「喜び」、「悲しみ」、「怒り」など、感情のレベルがどんどん「分化」していくという。

 

 では、これらの「判断」は、なくしていくべきものなのか。

 

 究極的にはそうなんだろう。

 

 でも、それは、努力して為せるものじゃない。

 

 むしろ、それを目指そうとするほど、つらくなっていく。

 

「理想状態」など、どこにもない!

 最近長野を訪ねてヨガの個人レッスンを受けた。その時に柏原ゆうた先生が言っていたこと。

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二元論的にヨガをすると、僕たちは苦しくなる。

 

「今の自分」と「理想状態」という二元論。つまり、何か目指すべき次元を今現在の自分とは別の次元に設定して、それを目指そうとすると、できない自分とのギャップに苦しむ、ということだ。

 

 だから、「無条件の愛」を理想の境地として自分に課したりすると、現実として感情的に「判断」をしまくる自分に気づき、とても苦しくなる。

何かイヤなことがあると、「イヤだな」と思うと同時に、「あ、またイヤだなって判断しちゃってる、ダメだなぁ」と、二重に苦しむことになる。この二次的な苦しみも、自分を自分で裁いていることに他ならないんだけどね。

 

 自然に沸き起こる感情として、「イヤだな」と思うことは、誰しもある。(悟った人なら、ないのかな。)「無条件の愛」を装って、平静を気取ったりすると、明らかに自分の中で齟齬が起きてくる。それは、自分への暴力だ。

 

「愛」=やさしさではない!

 

 そこで、ある時、イヤなことはイヤと言ってみた。

 

 こんな当たり前のことだけど、忘れかけていたらしい。

 

 たぶん、「愛」という言葉をはき違えていたんだよね。愛というと、「やさしく接する」みたいなイメージがつきまとうけど、そうとも限らない。

 

「愛」というのは無条件で、しかも厳しいのです。

 (足立幸子『あるがままに生きる』

 

 いくら聖人みたいな境地を志したとしても、この瞬間、今の自分でしか生きられない。そして、今の自分には、「イヤ」だと感じることもある。

 

 その逃れられない現実を直視する、誠実さ。もし対人関係でイヤな想いをしたら、その感情を包み隠さず相手に伝えることが、自分と、その人に「愛」を以て接するためのべストな選択なのかもしれない。

 

 そうすることで、ラクになるし、お互い気持ちよく生きていけそうだ。

 

 「無条件の愛」は、原理的に、能動的な努力によっては為し得ない。意外と、「あるがままの自分」を大切にすることでしかないのかもしれない。

 

Be happy!

 

普段は人に贈りたいような言葉だけど、今回は自分に言い聞かせてみようと思う。