2017年、新年の目標に代えて。
新年を迎えて。
新年。新成人。
節目と呼べるこの年末年始なのに、個人的にはまったく実感がない。
目標も、特に立てる気にならない。
初日の出は見に行ったけどね。
それでも、新成人を迎えるにあたって、ざっと自分の人生を振り返ってみた。
僕は5歳でサッカー、14歳で古武術、19歳でヨガに出会った。何かひとつにはまると、とことんのめり込む性格なので、僕の人生の幅は、けっこう狭い。
文章を書くことは、小さい頃から好きだったらしい。それがお前の長所だよ、と父がよく言ってくれる。
と、このように自分の人生を分析し、傾向をつかみ、自分の今後について考えてみたりすることがある。でも、最近、そんなあり方に疑問を持ち始めてきた。
すべてはすべてに連関している。僕らの頭の中で組み立てられるロジックを、はるかに超えた複雑さが、現実にはある。それでも、何かが起こると、「原因はなんだろう」って考えたりする。原因らしきものが見つかると、少し安心するし、対処法も考えられるからだ。
でも、自分の小さな頭で考えた安易な因果関係の図式なんて、ことごとく無意味だったりする。そうやって分析した過去から未来を考えても、その通りに行くようなもんじゃない。
そう考えると、あらゆる思考、準備、方法論が無駄な気がして、絶望に似た気分になる。それでも、その一瞬あとには、こう開き直る自分がいる。
それなら、なんでも来いや、と言える強さがあればいいんだな、と。
できるだけ開いていたい
だから、ある特定の方法(to do)に頼ることは、極力やめようと思う。
ある方法を重視するということは、それに対する「執着」に他ならない。その方法に頼らないと生きていけない、という弱さでもある。ある方法を声高に叫ぶことは、それに共感できない者を排除することでもある。
できるだけ開いていたい。何かを言い切ると、必ずそこからこぼれ落ちる例外がある。
それは、強い言い方をすると、排除だ。
それでも、僕なりに見つけたある方法や理論を、人にシェアすることもある。僕と同じような悩みを抱えていた人が、それによって少しでも救われることを願って。
念を押すが、この方向づけは、排除でもある。
万人向けのような顔をして、この方向づけに付いてこられない人をあっさりと排除している。
それを、確信犯的にやっていきたいと思う。
善意に溢れた、謙虚な確信犯として。
実際のところ、僕は自分が体験したことしか語れない。
ヨガティーチャーとして動き始めた去年、このことは大きなジレンマだった。
僕はあなたじゃないから、あなたがどのようにヨガを経験しているか分からないし、僕がある方向づけをして教えたとしても、それがあなたにとってよいかは分からない。
それでも、自分の心やカラダから、湧き上がってきた言葉しか、僕はしゃべれない。
こんな葛藤を抱えながら、あえて今年の抱負らしきものをひとつ。
どこかで読んだ言葉なんだけど、出所は忘れてしまった、こんな言葉。
明るく開いて待つ。
どんな未来が来るか僕には分からないけど、どんなことが来てもいいように、この言葉を胸に刻んでおきたい。
2017年もよい年になりますように。
ヨガの「資格」ってナンだ
今年の夏、僕はヨガインストラクターの資格を取った。というより、インドで1か月ヨガをしたら、結果的にもらえた。
ヨガにおける「資格」って、どんな意味を持つものなのか。
最近思うのは、「資格」ほどヨガからかけ離れたものはないな、っていうこと。存在自体が矛盾に満ちている。
資格って、ある種の「保障」を僕たちに与えてくれる。あなたは、ヨガを教えられる能力がありますよ、っていう保障。
でも、ヨガって、そんな保障が得られるものじゃない。
「これさえやっておけば安心」みたいな保障って、ヨガからかけ離れている。
常に自分の身心と対話し、見つめ直していく。ヨガって、その過程でしかない。
幸か不幸か、ヨガには、訓練法が多彩過ぎるほどある。さまざまなポーズ、呼吸法、浄化法、瞑想…
それは、ある意味で親切だ。お寺に行って、「ただひたすらに坐れ!」と突き放されるような「不親切さ」とは一線を画す。
でも、この親切さは、落とし穴の多さでもある。山を一歩一歩登っていく、その足場が保障されているような錯覚を起こしてしまいそうになるからだ。
本当は、自分の力で道を作り、歩いていくしかないんだよね。「ヨガをする」とは、「ヨガという方法論に自分をはめ込む」のではなく、自分を縛っているものから出ていくことに他ならない。 ヨガをするとは、ヨガという靴を履いて歩くことではなく、靴を脱いで裸足になることでしかない。
逆説的だけど、「ヨガ」の規則に縛られるようになったら、それは最もヨガから遠い、とすら言える。
だから、資格によって能力を保障されることもできない。何か方法論を見つけたからといって、「これで安心!」ってことはない。本質的には、「ヨガを教えること」なんてできないんじゃないかな。
カントは、
「哲学を学ぶことはできない、せいぜい『哲学すること』を学べるだけである」
と言った。
それと同じように、こうも言えるはずだ。
「ヨガを学ぶことはできない。せいぜい『ヨガをすること』を学べるだけである」
僕は、資格のおかげで、形式上「ヨガの先生」という立場に立つことができるようになった。
でも、教えられないんだよね。僕だって、他の先生から「ヨガ」を学ぶことはできない。
強いて言えば、みずからの身心と対話し、その都度真摯にヨガをするその「姿勢」は、学ぶことができる。
ついつい、「これをやっておけば安心!」という方法論を求めてしまう。でも、それは、自由を放棄し、方法論の奴隷になることを自ら選択しているようなもの。ニーチェさんならこう言うだろう。
方法論を捨て、生身で生きよ!
何かに寄りかかりたくなる「弱さ」を捨て、強くなれ!
あえて言うと、僕は裸足になり、自分の足で歩くためにヨガをしている。
一筆書きの動き
「和の動き」に見るもの
僕が「和の動き」と聞いてイメージするもの。
茶道、能、舞踊、武術など。
よどみのない、なめらかな動きであるように僕は思う。(僕はこれらのいずれもきちんとやったことはない。)
この、一本の流れでつないだような動きを、僕は「一筆書きの動き」と呼んでみようと思う。
僕たちは、「動」物であり、常に動き続けている存在。
マクロ的に止まって見えても、ミクロなレベルでは必ず動きがある。だから、意識的に動いていく時も、本来「動き続けている」ということを忘れず、その延長で動くことが大切なんだと思う。
「動」物をやめるとき
しかし、僕らが意識的に動こうとするとき、この「動き続けているカラダ」を自ら止めてしまうことがしばしば起こる。
例えば、重い物を持とうとするとき。ちょっとその時の身体イメージを呼び起こしてみると・・
低い位置にある物を持って、足を踏ん張り、「ふんっ」と持ち上げるイメージ。
この「ふんっ」という瞬間、無意識のうちに息を止め、踏ん張ることでカラダ全体の動きも止まる。
これが、「よどみ」であり、「なめらかさ」が途切れる瞬間であり、武術的に言うと「居着き」なのかもしれない。
大袈裟に言うと、「動」物であることをやめた瞬間と言ってもいいかも。
この「よどみ」をできるだけなくしてみたい。
例えば、椅子から立ち上がるとき。「よっこらせ」と立ち上がるときには、「頭を前に倒す」→「膝に手を着く」→「足を踏ん張る」→「腰を浮かす」→「膝を伸ばす」と言ったように、いくつも分節があり、よどみだらけの動きになってしまう。
動きの要所要所に表れるこの「よどみ」は、不思議なことに、精神的にも「よどみ」となることがある。
試しに「よっこらせ」と立ち上がってみると、「けだるさ」のようなものが胸のあたりに残る気がする。「ふぅー」とため息をつきたくなるような、なんとなくネガティブな身体感。
この動きを、「一筆書きの動き」に変えてみる。
顔の前に片手を上げて、その手を斜め上に伸ばしていく。そのまま伸ばし続けていくと、いつの間にか立ち上がる。(あくまで一例。)
この時の動きには、分節がなく、はじめから終わりまで「一筆書き」で書かれた線のような、よどみのなさがある。
そして、この動きの後に残る身体感は、なぜだか、実にさわやかな感じがする。
なめらかな動きは、身体的によどみがないがゆえ、精神的にも「けだるさ」のようなものを残さない、ということか。
動作の積み重ねが、その人である
些細な違いだけど、日常で無意識に動作を繰り返している僕らにとって、この違いは意外と大きいのかもしれない。
動作ひとつによって、人はだるくもなれるし、さわやかにもなれる??
なんてこと、あるかもしれない。
いつでも動けるカラダであること
サムライは準備運動できない!
僕の師の父である武術研究者の甲野善紀先生は、武術とスポーツの違いを説明するとき、よくこんな話を持ちだします。
武術では、いつ襲われるかわからないという状況下で、すぐに動けなければ意味がありません。斬りかかられたときに、「ちょっと待て、準備運動をしてからだ」と言うわけにはいきませんからね。
『身体から革命を起こす』
つまり、「必要なときにいつでも動けるカラダ」があることが大事なのです。自然界に生きている動物は、準備運動することなく、天敵から襲われれば走って逃げますし、獲物を見つければ俊敏に動いて捕らえようとします。彼らの動きは、自然であり、カラダの構造に無理のない動きをしているので、急に激しく動いても肉離れをすることなどないのです。
逆に言えば、急に動けないということは、自然の構造から外れた無理のある動きをしているということなのです。このことは、武術でも、ヨガでもスポーツでも同じです。
本田圭佑にとってのプロフェッショナル
このことを思い立った高校時代、僕はサッカー部に所属していました。ならば、いつでも動けるようになってやろうと、ちょっと荒めのトレーニングをしたこともあります。例えば、朝一番に練習場に出て、ストレッチもアップもせずにいきなり坂道ダッシュやシュート練習など激しい動きを繰り返したりもしました。
この練習法は、いきなりやるとケガの危険もありますし、褒められたものではありません。しかし、当時の僕には、「自分のカラダなら大丈夫」という変な自信、信頼感のようなものがありました。
僕はサッカープレイヤーとしては平凡でしたから、スポーツのトレーニングについて口を出すことはできません。しかし、カラダに対する基本的な考え方として、「必要なときにいつでも動けるカラダがあるか」という視点は必要なのではないかと思います。
サッカー日本代表の本田圭佑選手も、あるインタビューでこんなことを言っています。
抜き打ちテストみたいに、いきなり「明日試合が入った、どれだけ準備できているか?」みたいなことがあっても面白いと思う。「いつでもいける」というふうにすべきだというプロフェッショナルな考えがある。
と語っています。
いつでもヨガできるカラダ
「いつでも動ける」という観点は、ヨガからも見出すことができます。例えば、ハタ・ヨガの古典には、こんな文面が登場します。
胃の4分の1はいつでも空けておく。食べ物で半分を満たし、4分の1は水で満たし、胃の4分の1は気の回転のために守る。
『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』Ⅰ-58
この文面は、単純に健康のため、消化器に負担を掛けないため、などの理由の含まれていると思いますが、実践してみると、「いつでも動けるカラダ」を保つため、という意味も含まれているような気がします。実際に、食べ過ぎてお腹をいっぱいにしてしまうと、数時間はカラダが動きませんし、ヨガを実践することもできません。
かくいう僕も、食べ過ぎてぐったりとした気分になってしまうことは多々あります。こうなってしまうと、心が乱れているなと自覚しても、それをヨガのプラクティスによって解消しようと思ってもできません。食事を少量に抑えておけば、そもそも心が乱れることはあまりありませんし、乱れたとしてもヨガの呼吸法やポーズを使って整えていくことができます。
現代人は昔のサムライのように、急に襲われるということはほぼありません。しかし、それでもなお、「いつでも動けるカラダがあるか」ということは大切なのではないでしょうか。
あるインド人ヨギ_
インドでのヨガティーチャートレーニングにて、最も衝撃的だった出来事を紹介します。
それは、空き時間に、インド人の友達(30歳くらい)と二人で自主練習をしていた時のことでした。
普通にヨガのポーズを練習していた彼が、いきなりこんなことをしゃべり始めたのです。
このポーズは僕がやっているんじゃない。神が、シヴァ神が、僕にこのポーズをとらせているんだ。
彼はポーズをやめ、天を見上げて、さらにしゃべりつづけました。
世界中が平和になってほしい。僕はみんなを愛している。僕は富める人を愛している。貧しい人も愛している。朝ごはんに食べるフルーツも、道に生えている木々も、道端で歩いている牛も、僕はすべてを愛している。
この言葉は、僕がしゃべっているんじゃない。シヴァ神が、僕の身体を媒体にしてしゃべっているんだ。
僕は、このためにヨガをしている。神様とつながるためにヨガをしているんだ。
このような調子で5分くらいしゃべり続けた後、彼はふといつもの調子に戻って、「ユウト、今の僕の言葉はどうだった?」と聞いてきました。
僕は圧倒され、ちょっと怖い気もして、うまく言葉を返せませんでした。
彼は、それほど身体が柔軟なわけではありませんし、ポーズがずば抜けて美しいわけでもありませんでした。しかし考えてみると、私が「柔らかくなること」、「ポーズができるようになること」などに執着してしまうと、それは苦しみへと転化します。
彼は、そういった執着が皆無でした。なぜなら、「ポーズをとっているのは自分ではない」からです。
もうちょっというと、ポーズをとっているのは、この肉体に限定されたものとしての「私」ではない、というイメージですかね。
いずれにせよ、示唆に富んだヨガへの態度を目の当たりにした、貴重な体験でした。
「それ」を見つめろ! 韓氏意拳レポート
3時間の講習会中、韓先生は50人近い参加者を前に終始大きな声で語りつつ、エネルギッシュな実演も見せてくれました。その中で特に印象に残った言葉はこれです。
為学日益 為道日損 (学とは日々増えていくこと、道を求むとは日々減らしていくこと)
これは、『老子』からの引用でした。その続きはこうです。
損之又損、以至於無為
(減らした上にまた減らし、どんどん減らしていって、ついには「無為」の立場にゆきつく)
無為而無不為(「無為」のままにいて、それですべてのことを立派になしとげるようになる)
取天下、常以無事。及其有事、不足以取天下(世界を制覇するのは必ず格別な仕事をしないで、あるがままにまかせていくことによってである。もし格別な仕事を少しでもしようものなら、世界を制覇することはできない)
知識や経験が増えると、それを「使ってやろう」という欲が生まれます。その心は、自然に生きようとするカラダと相反します。
「それ」を見つめろ!
稽古の最中、韓先生は繰り返し言いました。
「意念の中で動くのではない!現実に今動いているそれこそが、動作なのだ!」
「意念の中で動くな」とは、意の中で理想とする動きを作り出してから、身体にそれを現前させようとする僕たちの悪い癖を戒めたものです。理論や方法を学び、それを現実に当てはめて学習していくことに慣れた僕たちは、「手を挙げる」という単純な動きの中にさえも、「正しい手の挙げ方」があることを(無意識のうちに)想定しています。そして、その「正しいモデル」に自分を合わせていくように動こうとします。
しかし、現実に「正しい手の挙げ方」など存在するはずがなく、今挙げているその手の動きこそが、私たちが見つめるべきものなのです。そんな時、あらゆる知識や経験は役に立たず、すべきことはただ今の自分を見つめることだけです。知識や経験を豊富に持っていると、それらを駆使して現実に向かおうとするため、現実にいるカラダとのタイムラグが生じます。それは、自然界に生きる動物として、致命的な遅れとなるのです。
韓先生や老子は、「知識が増えること」によるこのような弊害に対し、「為道日損」と言ったのではないでしょうか。
「道」と「学」
ところで、僕自身は道を求める身体技法の実践者であると同時に、学を求める学生でもあります。このことはジレンマでもありますが、学と道を同時に求めることも、僕は不可能なことではないと思っています。
最後に、これからも僕が抱き続けるであろう問いを提示しておきます。
日々生きていくことが道(タオ)であるような心身の在り方とは何か?
英語でYoga 哲学編
哲学に関わる単語
- misery 苦
- transmigration 輪廻
- reincarnation 転生、生まれ変わり
- liberation 解放、自由
- emancipation 解放
- nirvana 解脱
- divinity 神性
- cosmic consciousness 宇宙的意識
生きていることは「苦」だからこそ、輪廻からの解放を目指すことが、すべてのインド哲学の基本にある考え方です。
- monism 一元論
- dualism 二元論
- pluralism 多元論
ヨガ哲学と、それと兄弟関係にあるサーンキャ哲学は、世界を二元論的に説明します。他のインドの伝統的な学派には、一元論哲学も多元論哲学もあります。
倫理に関わる単語
- moderation 中庸
- penance 苦行
- austerity 厳格さ
- ascetic 禁欲主義の
- chastity 純潔
- celibacy 独身主義
- continence 自制
- contentment 知足
- purification 浄化
- detachment 離欲
- aversion 嫌悪、反感
- hoarding 貪欲、ため込み
- devotion 忠誠
- surrender 身を任せること
実践に関わる単語
- withdrawal 制御
- cessation 停止
- self-remembrance 自己想起
- involution 退行
- gross object 粗雑な対象
- subtle object 微細な対象
- meditation 瞑想
- deliberation 熟考
- absorption 専心